心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

自己愛性人格障害者って楽しめないから

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自己愛性人格障害者的な人達…

 

周囲に沢山いるので、観察しているのですが…

 

とにかく用意がずさん

 

なんでこんなにいい加減な用意をするんだろう?ってずっと思っていた

 

もちろん、周囲にやってくれる人がいるから!なんだろうが…

   

そもそも、何かをする時にそれを思う存分楽しもうと思っている人は、用意周到じゃない?

 

スッゴく分かりやすい例でいうと、バラエティー番組でのヒロミさんのDIY

 

技術はもちろん凄いけど、簡単に一人で出来る道具とか、無理な体制をし続けなくていい方法とか、そこらじゅうに楽をちりばめている

 

簡単に出来る技が、始めの一歩を踏み出すハードルを下げて「私でも出来るかも!」「テレビの前の君でも出来るよ!」と周囲を巻き込む雰囲気をかもし出す

 

何より、本人が楽しそうだ

 

辛い作業も楽になり、自分のやりたい事をかなりのこだわりを持ちながら楽しんでいる

 

なんだか使えそうだなと思う人はとことん使うし、いつでも他人の力を借りれるようにコミュニケーションをこまめに取る

 

連絡を取る相手はスペシャリストも多い

 

 

「いやー、やっぱり専門家は違うよね。これ、凄いよな。俺なんかさ……」なんて言葉を口にしながらやっているところなんか、相手をリスペクトしているなと感じます

 

でも、自己愛性人格障害者的な人達ってどうだろう?

 

自己愛性人格障害者的な人達が同じような事をするとしたら、自分で道具も用意せず、誰にも声を掛けず、番組の用意したスタッフと、用意したものを作る

 

上手く見えそうな自分と、引き立て役のダメダメなアシスタントを引き連れて、「やっぱり俺ってすごくない?」って感じになっちゃうのかな

 

「俺ってすごくない?」って見た目は楽しめても、本人も周囲もやっている事での発見も少ないし全然楽しめないんじゃないかと思うんです

 

これ、周囲の自己愛性人格障害者的な人達に凄い多いかも

 

自己愛性人格障害者達はとにかく見た目が大切です

 

見た目から入ることも大切だけど、それは最終的に中身も伴って意味がある

 

それがもし見た目だけだったら…

 

中身や本質を見ない人は、何を用意したら楽しめるか?なんて考えないのかも

 

自分がカッコ良く見えることに価値があって、中身が充実していることに価値がないなら、そこを自分から楽しむ発想は生まれないのかも

 

そもそも、自己愛性人格障害者は楽しいことをするから楽しいと思っている

 

そういう人達が他人に声を掛ける理由は、一緒にやってお膳立てを任せてしまいたいから…

 

誰かにお膳立てしてもらって、それが楽しいか楽しくないかを判断する係りをしたいってどれだけ上から目線なのか…

 

楽しくないなら、お膳立てした人やそのものが悪いってなるだろうし、そういう構図になると、周囲の人達はその人に楽しんで貰いたいとせっせと用意をする事になる

 

気がつけば、その自己愛性人格障害者的な人の楽しめるような場やものをその自己愛性人格障害者の顔色を伺いながら提供する事になるかも

 

その状態は絶対に楽しめない

 

ここでフラットな関係なら、「面倒だからやりたくない」っていうと思うけど、ちょっとでも力関係が働くと、いやいや一緒にいることになるのかも

 

自己愛性人格障害者的な人と一緒にいても労力ばかり使ってつまらない!」って思うひとつの原因かも

 

結局、辛いことも楽しいことも全部自分次第で楽しむことが出来る

 

楽しそうな人は、どんなことでも中身をしっかり見て用意して楽しめるし、何でも辛いと思っている人はどんなことでも本質とは関係なくパッケージを眺めながら、周囲の用意を期待して生きているのかも

 

「この人になんかやってあげる気がしないな~」「一緒に何かやると疲れるなあ~」とかって、そんなところから来るのかもしれない

 

どんなに大変でも、あっという間に時間が過ぎて、体が痛くなっても楽しめるような「事」じゃなくて、何でも楽しめる人が重要なのかもなと思います

 

自己愛性人格障害者的な人達は周囲に全てが揃っていそうなのに満たされないし楽しめない人が多い

 

不満ばかりだもの

 

AIには絶対に出来ない人の価値は、「楽しめる」事にあるのかもしれないな