心と身体とピラティスと運動

倉敷でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

過度な配慮を期待をする人

タイトルがこれでいいのか迷ったんだけど…

 

普段はそれほど気にならないのだけど、評価をされる時になると「ちょっと下駄履かせてくれないかしら?」「失敗を見のがしてくれないかしら?」「見てなかったとかないかしら?」「○○では下駄履かしてもらったみたい」と実力以上の評価を相手に期待する人がいる

 

それを、いつも「はあ」と思いながら聞くのだが、言っている本人はどう思っているのだろうか?

 

なぜ実際の評価より上の評価を求めてしまうのか?

 

違和感しかなかった

 

この人も、他人のふんどしで相撲をとっている

 

評価を受けるのは他人とはいえ子供

 

まあ、まず子供のふんどしで相撲を取る人は、自分と子供を同化している

 

私の夢は子供の夢

 

子供の手柄は自分の手柄

 

子供がヘマをしたら子供の責任

 

都合がいいよね

 

迷惑を掛けたのが子供なら当然子供の責任

 

でも、手柄は横取りしちゃね、夢も自分の夢を押し付けてはね~

 

もちろん、子供はそれに気がついてもいないし、親だってそうは思っていない

 

子供が好きだと言っているからやらせているのだし、子供が頑張ってるから親は協力していると思っている

 

でも、子供が出来たらごほうびを与え頑張らせる

 

子供の成績をあげることによって、前にぶつぶつと言われた人達を親が見返してやろうと思っている

 

子供のために親が頑張っているのだから、子供が頑張るのは当然だし、成績がとれるのは当然と思っているのかもしれない

 

それは、自分の中で…

 

そもそも、子供の評価はその人の中で決まっているのかも

 

周りを見返せる評価はこのくらい

 

だから、その評価に達しない物は認めたくない

 

その評価が無いといけないのかも

 

「自分の中で決めた合格点が得られないかしら?」と言っているのかもしれない

 

他人に評価される事は、評価されたそのままを受け入れることが大前提

 

なのに、評価する人に自分の希望の評価を押し付けて、他人のした子供の正当な評価との差の部分に特別な配慮を求めている

 

配慮出来ない事に対して、評価をする人の見る目が無いとか、他の人は配慮してもらったとか文句を言う人達もそうだが、希望の評価が得れない事を他人の責任にしてしまうのかもしれない

 

毎度毎度、特別な配慮を求める言葉に違和感を持つのは、評価をする人に対する不信感を感じとるからかもしれない

 

評価をする人達は、私が大好きなその物を愛している人達

 

彼らを信じて、その評価を真摯に受け入れたいと私が思っているからこそ、気分が悪いのかも

 

成長のために厳しい評価を下してくれる人もいるけれど、それも愛と受け止められる信頼関係がないのかな

 

なんだか残念

先生の中にある好きなことを突き詰める思い

競技等の先生には2種類いるのかなと思う

1つは、先生になるほどその事に興味を持った人、大好きでやっている瞬間が楽しくて、その楽しさを教えたくて先生になった人

もう1つは、先生になれるほど成績が良かった人 好きか嫌いかではなく、周りを横目に出来る過程が楽しくて、その成功体験を子供達にも教えたくて先生になった人

教える技術は、現役時代に出来たか出来ないかはあまり関係ない

でも、後者はやっぱり成果主義になりがちだ

そして、勝ち負けのある競技などは、かなり高い割合で、後者に近い先生がいるのは当然だと覚悟すべきだと思う

そりゃー、大好きな事を教えてくれて教える技術がある先生は最高だ

でも、両方を兼ね備えるのは難しい

愛してやまないものを教えることを商売にするのはなかなか難しい

そういう人が、お金や損得でその物に向かっている訳ではないから当然だ

お金をとらないから技術を向上させなくてもいいわけではないし、好きなら上手くならなくていいわけでもない

でも、商売が上手くて生徒が辛いのも勘弁願いたい

何にでもいつまでも興味が持てる探求心旺盛な人が、楽しく教える教室がいい

ただ、それも生徒に力がないとついていくのもしんどくなる時はあるのかなと思う

パワーがある人の近くにいるにはパワーがいるからね

今頑張ってることは本当に自分のため?

自己愛性人格障害者の親を持つ子供達は、親の夢や見栄を全て自分の夢や見栄だと信じている

 

楽器や競技や作品などに一生懸命向かったり練習に励むのも、全て自分のためだと信じている

 

でも、それは自己愛性人格障害者である親が望んでいることをしたいと思っているだけ

 

そうすることで愛される事を望んでいるし、子供として大切にされたいと思っているし、

親が喜んでくれる

 

それをしなければ、イライラと当たられ捨てられる恐怖を裏に持っている

 

その楽器や競技を自分が好きか嫌いかではなく、親の事が好きなのだ

 

そういう子が、自分と同じ物を好きで好きでたまらないと思いながらやってる同じ年代の子に出会った時、情熱の違いにふと気がつく

 

「私はいい成績を残せるけどそんなに好きではない」と気がつく時がある

 

「自分はそんなにその事を好きではないけれど、親がやめさせてはくれないだろう」と思う時がある

 

ちょっと反抗してみたり、親を遠ざけたり…

 

でも、自己愛性人格障害者はそんな子供の変化に気がつく

 

反抗した瞬間に自分のほうが正しいと子供に芽生えた感情を封じ込めようとする

 

「見てみなさい、あんな風にだらだらとやっていても上手くならないでしょ、可哀想に」

「親が子供の事を考えてあげないバカだから子供があんな風になっちゃって」

「ほーら、私が言った通りでしょ!私の言うことを聞いてれば間違いはないのよ」

「あなたには最高の環境と先生をつけて毎日私があなたの事を思って生活をプロデュースしてきたのよ、あんな子供の事を放って置いて好き勝手させて子供達も寂しそうで可哀想よ」

「常識のないバカな親の子は可哀想ね、私のお陰であなたは幸せね」

 

なんて言う

 

自分の意思でなにかをやって続けている子供達は、中学生にもなればある程度の反抗期も経験し、自立している

 

親と子供の思いが違う事にも疑問を持つ子供はいない

 

親がべったりの過保護は辛いし、押し付けにもうんざり、好きでやっているものに朝から晩までの全面的な親の協力なんていらない

 

小さい頃から過保護に全てを親の管理により動いて来た子供達に比べたら、確かにだいぶ無駄な練習をし、進みも遅くなる時があるかもしれない

 

でも、私はそれも無駄てはないと思っている

 

自分の意思でやることの楽しさは、どんなにいい成績よりその子の財産になるのだと信じている

 

子供の頃の自分の思いを形に出来たその経験が、自信となってずっとその子の背中を押してくれると信じている

 

だから、大好きな事にガンガンと向かえる人は力強いし輝いている

 

周りもそんな人間への協力を惜しまない

 

小さな遅れなんて気にしない位の勢いで駆け抜ける時がいつか来る

 

そして、その頃には親の思いを組んでやっていた子は自分の思いに気がつく事を諦めるか、おもいっきりぶちギレてやめてしまうかの選択を取る

 

子供は親が大好きだ

 

親の笑顔が見たいし、喜んでもらいたいし、自分を好きでいてもらいたい

 

ぶちギレてやめてしまうことは親と縁を切る事と変わらない

 

自己愛性人格障害者の子供は自分の意思は親の意思と信じて生きていく事が幸せだ

 

親がトップや先生に代わり、トップの意見が全てだという子供が大人になって、自己愛性人格障害者や取り巻きになる

 

従順ないい子は、親の意思を汲んでいる

 

好きか嫌いかも分からないほど自分の意思が無いのは人間として厳しい

 

一人で立つことも難しいし、生きている価値も見出だせない

 

もし、自分の目の前に大好きな事がある人が現れたとき、気がついても見ない振りをしたほうが楽だと感じるなら、ちょっと過保護が過ぎるかなと思った方がいいかもね

 

自分の気持ちに正直に居られる事は素敵なこと

 

わがままと正直は紙一重だけど、自分の気持ちに正直に動いてもただのわがままにならず周りと上手くやる方法ってある

 

大好きな事を大好きと思って出来ることの幸せをもっと知ってほしいな

 

自己愛性人格障害の親達にはほんと迷惑な私

 

そして、周りの自己愛性人格障害者の親を持つ子供達を翻弄する我が子達もまた迷惑な存在

 

排除され続けるのは当然と言えば当然かも

自己愛性人格障害という言葉をカジュアルに使いたい

自己愛性人格障害」なんてほとんど知られていない言葉

 

ストーカーとかいじめとかDVとかモラハラとかなんだか考えが及ばない被害に合ったときに調べると出てくるかもしれない

 

普通の思考じゃない違和感

 

え!もしかして話し合ってもわからない?

 

あれ?うなずいたけど全く記憶にない?

 

嘘が記憶に替わってる?

 

みたいな出来事で調べると気がつく

 

でも、調べないと分からない

 

調べても分からない時もある

 

世の中、自己愛性人格障害者もそれらしき人も軽いそういう人も沢山いるのに、こういうフィルターの持ち主の存在があることを知らない人がほとんどだ

 

こんな考え方は、誰でも持ち合わせているのに、ほとんど知らない

 

それってどうなんだろう??

 

今や水虫位多いこのフィルターの持ち主の存在をそろそろ公にしてもいいんじゃないかな

 

もっと自己愛性人格障害を広く沢山の人が認識出来れば、なんかかわらないかな?

 

なんて思う

 

そう、足の水虫位ちっちゃいのから、重篤なの物まである自己愛性人格障害

 

カジュアルにこの言葉を使って、周知させることで、今ターゲットになっている人や周りの人が少しでも楽になったり、人との関わりを考えたりすることは出来ないのかな?

 

医者が言ってる事じゃなくて、被害に遭った私が、こんな思考で動くよって文章が世の中に出てくれば、ちょっとは違うかなって思ってブログを書いている

 

被害者はなかなか立ち直れない

しかも、被害中は強烈な支配からネットで調べることも書くことも容易ではない

 

だから、複数の自己愛性人格障害者が身近にいながらに距離をとり冷静に文章に出来るほどの環境がある人はそれほど多くはないだろう

 

こういう人達がいる事を知って今目の前にある壁を越えられる人が増えるといいな

 

人の成功を喜べない自己愛性人格障害者が多いのは…

自分が不幸なときは、人の幸せはなかなか喜べない

 

これは、仕方がないと思うかもしれない

 

でも、そもそも今が不幸か幸せかはその人自身が決めること

 

同じ状況、同じ環境に置かれも、幸せと感じる人も不幸のどん底と感じる人もいる

 

今の私の環境を他の人が経験したら半分以上の人が不幸だと思うだろう

 

でも、私は幸せだ

 

今までの苦労から比べたら、こんなに幸せな環境は無い

 

そう、今まで困難が有ったから今か幸せだと感じられる

 

困難が無いと幸せを感じられない

 

困難が無い社会を作ることは素敵なことかもしれないけれど、困難が無いと人は目の前にある幸せが見えない

 

幸せを感じる事が出来ない人が多い日本は、なんにも困難がない素敵な社会であることの証

 

だから、自己愛性人格障害者の様に何でもあって何でも出来ても自己評価を上げず、劣等感の塊で、人の成功を喜べない人達が増えるのは当然

 

そういう人達が多いコミュニティーは、物に満ち溢れていて不自由のない素敵な人達が多いコミュニティーであるということなのかもしれない

 

そんななかで、その人達のターゲットとなりその攻撃を乗り越えられれば、もしかしたらターゲットは一番幸せに近い人なのかもしれない

 

不自由のない人達が幸せを感じる事が難しいなんて案外神様は平等なのかも!なんて思った

自己愛性人格障害者の親を持つ子供のわがまま

自己愛性人格障害者の親を持つ子供は成果主義

 

絶対勝たなきゃいけないし、絶対一番じゃないと嫌

 

勝たなきゃ意味がないと思っている

 

ずるをしても意地悪をしても何としてでも勝ちたい

 

勝てなかったり、上手くいかなかったりすると、途端に機嫌が悪くなる

 

途端に泣き出す

 

いくつになっても5才?みたいな小さな子

 

だから、周りは気を使う

 

ごっこをしても、狙わない

ゲームをしても、勝たせてあげる

自慢したら「凄い!」と言ってあげる

 

万が一負けたら、ルール変えられちゃうし、そのあとずっと機嫌悪いし、面倒

 

もちろん、子供達だってそんな子と一緒に遊びたくない

 

遊んであげて、気を使ってあげて、勝たせてあげてるのに、周りにはジャイアンの様に「皆は頑張っても私には勝てないのね!」なんて、周りをバカにした発言

 

ほんとうんざりだ

 

人をバカにするための努力はするから、色々と出来るようにはなる

 

トップに上がれば、その賞賛や気遣いはそれなりに大きくなり、気がつけば「お山の大将」

 

こうして自己愛性人格障害者がまた出来上がる

 

そんな子の母親は、自分の子がちゃんとやっているか?一番をとれるか?いつも目を光らせている

 

周りの体裁を気にして、自分の子より出来ない子達を小バカにしながら、幸せを噛みしめ生きている

 

そして、イライラするとすぐにタバコを吸いに居なくなる

 

なんて親子が私の周りには何十人もいる

 

凄いな~この環境

収入や美貌だけが目当てだったくせに!

結婚相手を決めるときやお付き合いをする時、何を基準に相手を決めましたか?

相手の収入!

見た目の綺麗さや格好良さ!

優しさ!

まあ人それぞれたけど…

それ、そもそも自分の基準でしたか? 周りの評価てはなかったのかな?

周りよりスペックのいい相手、自慢出来る相手を探した場合は、必ずそんなはずでは無かったと思うときが来ます

自己愛性人格障害者は、その考え方の間違いを教えてくれるのです

選んだ相手が自己愛性人格障害者であった場合には、自分自身がその人の本質ではなく、見た目やスペックを選んだ可能性が高いと思います

自己愛性人格障害者が全て悪いと片付けてしまうのではなく、自分の見方を変えないと、その自己愛性人格障害者と離れてもまた同じような人を好きになる可能性は高いです

女性の場合は、相手の収入が高かったり、自分だけに物凄く紳士的な優しさを与えてくれたり、格好良く奢ってくれたりする男性は素敵に見えるかもしれません

でも、結婚してみたら、周りにはもっと収入の高い人はいるでしょう

そしたら、あの人をなぜ私はゲット出来なかったのか?って悔やむでしょう

収入が高いだけが目当だったら、別に暴力を振るおうが、ギャンブルをしようがいいはずなのに、きっとそんなことはないはず

格好良く奢ってくれるのも、自分だけ特別だったときは嬉しかったし、一緒にいればただでご飯にありつけて得をする相手だからいたけれど、裏を返せばただの見栄っ張り

結婚してしまえば奥様に見栄を張る必要も無いし、浪費は絶えないだろう事は分かるけど、それが格好良く見えて結婚して、そこを嘆くのって変

可愛くて人に自慢出来る相手を選んで、自慢しまくった人が、相手である配偶者から人格否定やモラハラをされて耐えている現実があっても、誰も助けてはくれないかもしれない

それは、自慢したときに周りに対して可愛くない相手を配偶者として選んだ人達だと、下に見てバカにした過去があるからだ

厳しいが、今の自分は誰かに作られた訳ではなく、自分が作った人間だと思う

辛い状況を誰かの手を借りて脱する事が出来たなら、その手を差し伸べてくれた人に感謝して、その辛い状況を作って気づかせてくれた人にも感謝しないと、何も変わらない

自己愛性人格障害者は、見た目や社会的地位や見栄を大切にして、損得と勝負のみを基準として生きている

だから、得をする勝ち組の人に多いのは当然だし、それだけを目当てに選んだ相手のはずなのに、後で「損得や勝負以外の価値観があるはずなのに」と嘆いても、ずるいと私は思ってしまう

自己愛性人格障害者は、そのずるかった自分の基準を気づかせてくれた相手なのだから、落ち着いたらいつか感謝出来る時が来るといい

相手のせいにしていても、何も進まない

自己愛性人格障害者はなかなか変わらない

相手が悪いから、自分は悪くないと思ってしまったら結局変わらない

自己愛性人格障害者のターゲットになったときは物凄いピンチだけど、違う価値観を掴むチャンスかもしれない

出来ることぱかりが素晴らしい世界から、出来ない事を認められる格好良さに気がつけるチャンスじゃないかと思う

今まで幸せに見えなかった人が幸せに見えて、自分が今ここにいることも幸せに感じられるなら、自己愛性人格障害者のターゲットになった意味かあるかもしれない

自分が選んだという考え方に責任を持つべきだと思います

ひゃー、厳し過ぎだね