心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

「伸びしろ」を自己愛性人格障害者を見ながら考えた

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習い事をする時に、先生達は何をみるのか?というと、その人の「伸びしろ」だ

 

その時、誰かよりうまいとか、成績がいいとか悪いとかなんてどうでもよくて、その人が持っている素質を見ている

 

特に子供の習い事はそうだ

 

先生の言うことをきちんと聞く、何でも無難に習得する子が必ずしも先生の目に素敵に映るとは限らない

 

ウロウロしてる集中力の無い子でも、天性の明るさやサービス精神があれば、人に見せるような事への「伸びしろ」は無限大だ

 

勝負強さや負けず嫌いが垣間見れれば、今がどんなにへなちょこでも勝負事の「伸びしろ」は感じる

 

でも、今の世の中、特に親は我が子を評価してもらいたい

 

自己愛性人格障害者の子供達は基本とても良い子が多い

 

自己主張なんて無意味なことはせず、親の言うことを聞く従順な良い子は、練習も一生懸命だし、態度もいい

 

だから、自己愛性人格障害者は自分の子供がその場で評価されない事について納得がいかない

 

というよりも「伸びしろ」のある子の価値が分からず、そちらに先生の目が向くことに、納得がいかない

 

ウロウロして落ち着きの無い子や習得に時間のかかる子が自分の子供の評価を妨げていると思いがちだ

 

自己愛性人格障害者である親達は、同じ位の年齢や技術の子供達やその親に文句をいう

 

「あなたの子がウロウロするから、うちの子が練習出来ない」

「あなたの子の習得が遅いから、うちの子が足を引っ張られる」なんて感じ

 

別に、自己愛性人格障害者の子供以外の子がどうであろうと、子供達の先生の評価が変わることは無いけれど、とにかく自分の子供の評価が自分の子よりその場で出来ない子と同じなんて許せない

 

評価されるべきだ!という絶対的な認識がある

 

これが本当に厄介

 

子供達の習い事には、どこにでもそんな親達がいる

 

ちょっと慣れると、その本性を表し、先生の評価を奪おうと周りを蹴落とす

 

自分の子のアピールを必死にする

 

周りは文句を言われるし、意地悪されるし、先生に贈り物や賞賛を浴びせる自己愛性人格障害者のその姿に危機感を感じる

 

でも…自己愛性人格障害者ではない先生の場合は、実はそんなのどうでもいいのだ

 

もちろんキチンと聞いてくれる従順な子は生徒のお手本みたいでありがたい

 

でも、大抵キラッと輝く物を持っている子には意思がある

 

自分の意思を持たない自己愛性人格障害者よりも、自分の意思を持って「こうしたい」と型にハマることを好まない位の子の方が、自分には無い新たな発見や想像力を掻き立てられて先生達はわくわくさせられる

 

その子が大勢するかしないかはともかく、型にハマった上手な子は、誰かのレプリカ位にならなるだろう

 

でも、誰かのレプリカは誰かのレプリカ以上になる事はない

 

その人個人がキラキラ輝ける特別な物になる事は難しいのだ

 

だから、自己愛性人格障害者やその子供が誰かの真似をして誰かを貶めて何とか大勢したとしても、なかなか評価は得られない

 

びっくりするような変化を遂げるには、強い意思と、困難にも耐え抜く情熱が必要だ

 

もしかすると先生達のお仕事は、そこに繋がるかもしれない細い糸みたいな物を見つけて、切れないようにそっと紡いでいくお手伝いなのかもしれない

 

誰にでもどこかにあるその細い糸を人は「伸びしろ」と言うのかもしれない

 

ちょっと言う事を聞かないやんちゃな子供でも「周りと一緒」ではなく、自分の意思をもってそこにいる子達が、大人になってガッツリ活躍している姿を目にすると、本当にそう思う

 

「伸びしろ」とは情熱と本人の意思の強さだけ??かもね