取り巻きが昇進したのをみて思うこと
自己愛性人格障害者に身も心も捧げてずっと共にしてきた取り巻きの成績がそぐわない
復活を掛けてひたすら努力してきた取り巻きの成績がそぐわないのは、自己愛性人格障害者のイライラのゴミ箱として利用するにはもってこいだ
時々、その取り巻きに怒りをぶつけている自己愛性人格障害者の姿を目にする
代わりに、新参者の取り巻きの成績がいい
自己愛性人格障害者は新参者の取り巻きと手を組み「私達は特別よ!」と周りを蹴散らす
自己愛性人格障害者の周りのなんとなく部外者達は、自己愛性人格障害者を称賛して媚を売る
なぜだか自己愛性人格障害者の近くの全ての取り巻き達も意気揚々としている
他人の成績が良いと偉そうになるなんて…
そんなに他人と自分の区別がついていないのか?なんて思うけれど、そんなもんだ
初めのうちは、自己愛性人格障害者に違和感を感じて、自己愛性人格障害者に媚を売りつつ周囲にぶつぶつと漏らしていた取り巻き達も、もうすっかり立派な取り巻きになった
自己愛性人格障害者のグループに適応するために、自分自身は捨てて、自己愛性人格障害者の意思や思いをしょいこむのかもしれない
そうなると、判断は全て自分では出来ないし、自分の意思でなにかをすることは、自己愛性人格障害者に反抗することを意味する
そんな力も無ければ、そんな考えにも及ばない
取り巻き達は、今なら自己愛性人格障害者の言うことを全て聞いて、殺人をもしかねない
取り巻きとは、そんなもんなのだ
虐待をする親の配偶者は取り巻きだ
自分の意思を捨て、自己愛性人格障害者であるもう一人の親の意思を全て自分のものにする
判断能力は0に近い
「親としての責任は果たせなかったか?」とか「自分より子供を守れなかったのか?」なんてどんなに言っても、きれいごとだ
判断力0で自己愛性人格障害者の思いを持った親と子供を外からどう助けるか?を考えなきゃいけないんだということを、もっと知ってほしいかも