自己愛性人格障害者達の競争社会での落ちこぼれに対する優しさ
自己愛性人格障害者は常に他人と比較して、他人と競争して生きている
競技とかテストとかなら順位がつくのだから仕方がないけれど、そうではない事も生きている上で全てが競争なのだ
持ち物、子供、奥さんや夫、ペットから、子育て、ご飯の内容、家の場所も家の大きさも、情報の多さも速さも、なんなら朝の起きた時間まで全てを他人と競争しながら生きている
だから、今まで何かで競っていた人が病気になったりすると、自己愛性人格障害者達は物凄い喜ぶ
心の中は、万々歳だけどそんな事言ったら、最低の人間だと思われちゃうから言わない
「心配だよね〜」といいながら、いつ復帰するんだろう?重い病気なら良いのにと思っている
基本、人の不幸は大好き
人のトラブルを栄養に生きている
そして、そんな人が復帰するととにかく優しい
心の中では、もう競争からは落ちこぼれた人をバカにして憐れんで蔑みながら、優しく声を掛けるのだ
それがとっても仰々しくって、気持ち悪い
優しさをここぞとばかりにアピール
下僕にしようとでも言うのだろうか?とにかく気持ち悪い
あれ、本人が自己愛性人格障害者だと気が付かないのかな?
チヤホヤされている感じが嬉しいのかな?
私にはあの空間が真っ黒に見えて、遠くで見ているのも厳しいのに…
でもね、病気をして復帰すると、タダで復帰はしないのが人間
お休みして、改めて好きだと思う事だってあるし、お休みしたから気がつく事だってある
リセットしたら、悪い癖は抜けるし、良いものは案外残る
お休みして事がプラスに働く事なんて沢山ある
確かにその場のその競争からは外れるが、戻ってきた時のパワーは凄い
気持ちを新たに!なんて言っても、日常生活が続いていたらなかなか新たな気持ちで望む事は出来ないけれど、ブランクを持ってすると、簡単にそれが出来る
だから、自己愛性人格障害者達がしめしめと思っていても、その間に気持ちを蓄えている人は沢山いるのだ
目先しか見れない自己愛性人格障害者達がバカにしている間に、優しくしてくれている間に、頑張ってみても良いんじゃない?
違う方向を見てみても良いんじゃない?
きっといつかそれが自分の役に立つ時がくるから
あの優しさの裏側と、あの優しさを受けた人のパワーを遠くからそっと見ておこう!と思うと思います
そして、我が子達もそんな事ばかりです
道から外れた我が子や私達を、バカにする人達に沢山会いました
今その人達はどうしているか知りませんが…あまりいい噂は入ってきません
結局、私達には誇れる物しか残っていませんので、そんな人達もありがたい私達の糧でしかないのです
それでもやっぱり、あの光景は苦手です
自閉症スペクトラムの押し付けの仕組みから思う事
軽いアスペルガーだろう人達に囲まれていた頃、その人達の物差しが刺さってくる事が本当にしんどかった
自閉症スペクトラムの人達の見方は一風変わっている
それは、ちょっぴり面白い視点だったりもするので、それ自体に問題があるとは今は思わない
ただ、人と人との距離が近くなると、その押し付けがうっとおしいほど酷くなる
人とは違う視点、人とは違う時間の流れ
人はそれぞれ全く違う感覚を持って生きているのだ
でも、自閉症スペクトラムの人は、目の前の人が全く違う感覚で生きている事を理解出来ない
目の前の2人の関係が恋人同士だったとして、自分の中に恋人という概念がない場合はその関係を想像する事が全く出来ない
本や漫画を読めば知識は入ってくるけれど、それは知識としてで感覚的な物ではない
本で読んだ関係や規則は確かに正しい事だけど、世の中全てが正しい事ではない
おまけに、自分の知識だけでは全ては理解出来ないのに自閉症スペクトラムの人にはそれが全て
2人は恋人同士だと知って、違和感を持って知識をいれたとしても、分からない事なんて沢山あるのだ
自閉症スペクトラムだと、頭の中にある事は全て言わなくては!と思ったり、意識してなくても言ってしまったり、注意しなきゃと思ったりしてしまう人も多い
それが、一緒になると、「この関係って悪い方向に行きそうじゃない?」とか「あの人気をつけないといけないよ」とか、何だかちんぷんかんぷんなアドバイスだったり、注意だったりをしてしまう事がある
間違った事を言っている訳ではないし、正しい行いだったりもするのだけど、はっきり言って大きなお世話だし、分かっていることを関係のない人から言われるほどうざい事はない
なんて事が毎日の生活で起こると、相手の物差しを毎日押し付けられていて、それを押しのける力が無くなってくる
違う事だと分かりつつも、モヤモヤを抱えながら、反発する意欲がなくなり自分に自信が無くなっていく
言っていることが正しいことだから、おかしいと指摘する事も出来ない
相手が刺している意志が無いのにガンガンと刺さってきて疲弊する
自己愛性人格障害者とはちょっと違うのだけれど、自閉症スペクトラムのこの違った見方の押し付けも、相手の善意が全てなだけに厄介なのだ
妹や弟に分からないであろう事を端から端まで支持をだしてしまったりするのも、指摘する人自身が抜けていれば大したことはないけれど、アスペルガーだと頭がいい
人が気がつない事にも気がついて、それを当たり前だと相手にも押し付ける
本当に参った物なのだ
そう、私にはこの押し付けをはねのけて、別の人格だと切り離した過去がある
そして、自己愛性人格障害者達からも、別人格を主張して距離間を保つ方法を少しずつ身に着けている
これを対立関係を主張せず、そっと距離を保って上手く関係を保ちながら距離を取れればベストだが、全てがそんな訳にはいかず、試行錯誤の日々なのだ
世の中の押し付けが、全て悪意でもないし、全て善意でもない
押し付けが親切だと信じてしている人がほとんどだから、押し付けはうっとおしいし跳ね除けられない
依存が強くなるほど、自立が出来なくなるほど、この押し付けは強くなる
依存が強くなるほど、自立が出来なくなるほど、この押し付けを跳ね除けられなくなる
お互い必要だから一緒にいるけれど、自立とは程遠いこの関係が、自己愛性人格障害者や自閉症スペクトラムの人達の力が強くなってしまう一つの原因なのだ
自立すれば、この厄介な人達は無害になる
社会が自立すれば、この人達は無害のまま共存出来る
そう信じて、居心地のいい社会に向かうヒントを投じられるようになるといいなと思う
自閉症スペクトラムの押し付けの仕組みが分かっても、何か変わるわけでは無いけれど、皆が違う感覚で生きている事を何となく許容して生きていけると楽なのかなと感じます
難しいとは思うけど、理想は高く、思いは強く、そっと心に持ち続けようと思います
実は多様性を認めてはいない社会
多様性が認められる社会を目指して!なーんて世の中の風潮だけど、私にはどうにもそちらの方向に人々が向かっている様には見えない
太っている人は採用しない会社があっても、容姿が整っていない人を採用しない会社があっても、それは社長の考え方なのだから、そういうのをやめましょうと規制をしたところで、根本は何も変わらないと思うんです
そんな会社に、もしも太った人の採用枠があったとして採用されたとしても、その会社での太った人の評価は絶対に上がらないし、元々そんな差別がある会社で太った人の居心地が良い訳がないのです
結局、「差別をしないようにしましょう!」「いじめをしないようにしましょう!」と多様性を認める雰囲気を作っても、その人の中に差別がある限り、多様性なんてかけらもなく色々な人を許容する心が育つ訳ではないのです
容姿で判断するな!なんて言わなくても、世の中容姿だけで判断する人ばかりでは無いのに、容姿で判断する事に目くじらを立てるのは、実はその人自身が容姿を凄く気にして、多様性を認めてはいないなと思うのです
ランキングをつける事も、その人のランキングであって、自分は違うなって思って見ていればそれでいいのかなと思います
そこで、「それにランキングをつけるのはおかしい!」って言うのは、あなたの価値観を認めない!って言っているのと変わらない
容姿で判断しても、順位をつけられても、バカだと言われても、本当にバカになっちゃう訳じゃないし、その順位で地位が決まったり税金が安くなったりするわけじゃない
その人はその人で、本当は何も変わらないのに、変わってしまうのは、自分がそれでいいと思えないからなのです
そうは言えども、他人の評価を気にしないで生きていくのは難しいと思うんです
だから、やっぱりバランスなんだと思います
アメリカでの雇用とかを見ても、規制しなければいけない位、心の奥底まで差別があるんだと思います
規制をかければかけるほど、表向きだけの平等を作り、中身とかけ離れた理想の社会ができていくのかもしれないです
多様性が認められる社会といいながら、多様性を強要する社会に向かっていくのかな
多様性を強要する社会は、人や物の小さな違いを見つけて、判断基準を細分化しながら、アクセサリーケースのような細かな箱に収めて行く様な社会
今はその箱のどれからも一つずつ選ぶ事が、平等で多様性を認める事だと多くの人が思っていそうで、なんか違うなって思います
人の良いところや悪いところは色々あるよねって誰もが思いながら、自分がやりたい事がキチンと出来て、他人がやりたい事も認めてあげれる事が多様性がある社会って言うんじゃないかなって思います
なかなかのバランスの持ち主じゃないと、そんな社会にいる事ももしかしたらしんどいのかもしれません
ピラティスインストラクターをしながら届けたい思いって何だ?
めざせNO.1でパフォーマンスアップ
mezase-no123pilates.jimdofree.com
確かにそうだけど、私って本当は何がしたいのか?
運動が出来るようにしてあげたい!
健康にしてあげたい!
確かにそうなんですが…
「何かが出来るようになる事を通して、人が自立するお手伝いをしたい」のかも
これが、ピラティスに自己愛性人格障害なのかの根本なのかもしれないです
今や、日本で自立出来てるなって思う人は一握り
気がつけば、仲良しの言葉の意味は依存かも、いじめの意味も依存かも、子育ての意味も依存かもみたいな…
そんな訳のわからない社会の中でも、自立さえ出来ればとっても楽しくて幸せで、自分が素敵で大切で大好きでいられるのかもしれないです
そんな自立のヒントをピラティスや運動を通して皆さんに提供したいのかもしれないです
楽な子育てへの転換のヒントだったり、踏み出す勇気だったり、イジメに打ち勝つ元気だったり、人との距離感の手がかりを散りばめられてるレッスンだと思っています
案外、壮大かも
だから、依存したい人達は教室を去っていくのかもしれないです
子どもを操る自己愛性人格障害者ママにとっちゃ、こんなレッスンは子どもに毒
さっさと逃げて行くのかもしれないです
そして、同じ志しを持っているリーダーがいる私の今いる小さなグループも、そういう人達にはとても居辛い場所なのかもしれないです
私もそのリーダーも人は選んではいませんが、来る人が選んでるのだと思います
どちらもとっても素敵な雰囲気なのに人が少ないのは、それだけ自立している人が少ない証拠
自立する事が素敵だなんて思っている人が少ない証拠かもしれないです
色々な不思議がちょっぴり解けました
方向性が見えたかも!
思春期で何を学ぶ
思春期はちょっぴり他の時期と違うのかもなと思う
体の成長と心の成長のスピードがちぐはぐなこの時期は理想と現実のどちらも受入れにくい
高い理想を持つ事はとっても素敵な事だけど、自分の持つ理想が高過ぎる事も理解し辛い
心が成長しないと、自分にとって何が一番かがなかなか見つけにくいのかも
自分が無かったり、心が大切じゃなかったり、体が大切じゃなかったり、健康が幸せじゃなかったりしてしまうのかもしれない
特に完璧主義だと、理想を突き詰めて自分が大切にできなくなってしまうのかもしれません
何かが出来ると信じてる事も、可能性が無限にあると知ることも素敵な事だけど、それは自分の体や心とのバランスが取れてこそだという事がこの時期は特に理解出来ないのかもしれないな
なんて思いました
痩せる事を目的に拒食症になったり、イメージを守るために自殺してしまったりすることは、自分の健康の上に目的がある事を忘れてしまっている
どんなに痩せても健康じゃなきゃ可愛くないし、イメージが崩れても生きている事が幸せだと気が付かないなんて寂しいけれど、そんなバランスが、人間が成長しないと取れないのかも
そんな時期が思春期
そして、その時期にちゃんと成長出来ないと、大人になっても同じ様な考え方でちょっぴり違った方向を目指してしまったり、子供が出来てもその子にちぐはぐを強制してしまったりするのかもしれないです
人間が動物である事が根本なので、そこを否定して人形の様な容姿を目指したり、生活感0のイメージを幸せだと思う事で心が壊れてしまうのは当然のこと
可愛くて美しいあなたを人が愛しているのではなく、そこにいるだけのあなたを愛している事を誰もが実感出来る社会なら、きっと皆幸せなんだと思います
容姿の素敵な人達はもしかしたらそれになかなか気がつけない可哀相な人達かもしれません
容姿に自信のない人達は幸せに近い人達かもしれないです
思春期の容姿やイメージが気になる時期は、そんな事を学ぶ時期かもね
なんて、痩せすぎの可愛さを求める子供達を見て思います
根拠のない自信への不快感の訳
「俺ってできるぜ!」「私って最高!」って、大した事をしていない人が他人が言っているのを聞くと、その人に寄っては物凄い不快感を感じる
これっていったい何だろう?
って思っていた
おまけにそんな風に根拠の無い自信を持っている人が、どうにも頭がよく見えない
確かに、結果から導き出す過程を理論的に構築する事は、大切だし、難なくそれをやってのける人はとっても頭が良く見える
でも、結果が分かる事ばかりではない
結果が分からなくても、論理的に物事を進めることは出来ると思うんです
論理的に物事を進めると、精神的な安定が図れるので、理論的な人はテンションの上がり下がりが少なくなるんだと思います
結果、常に冷静な人は頭がよく見えたり、見ていて安心なんだと思います
もしかしたらそれが裏付けがある自信に見えるのかもしれません
って、いう事は裏付けの無い自信を持っている人に足りないのは、安定や論理的な思考なのか?とも思ったけれど、何だかピントがズレている様に感じる
だって、頭が良くても悪くても、流石に不快感なんて感じない
じゃあ、何よ!って思って違う視点から考えてみました
同じ事をやっていても、現状で関わる人達への感謝があると全然違うのかなって所から掘り下げます
例えば、現状を打破しようとする時に、今持っている周囲全ての可能性を高めて自分の目指す所に向かっていく人と、現状から飛び出して自分の目的を果たす人がいると思うんです
全く違う分野へのチャレンジなら、もちろんそこを飛び出すために後者を選択する事は理解出来るし、試行錯誤をした後にそこの人達の推薦の元外に出る様な場合は、他人に対する敬意や信頼を感じるけれど、何もせずに飛び出して「違う場所で自分は出来るって信じてるぜ」って言われてしまうと、「周囲で支えていた人達の能力が無いから自分の力が発揮出来ないんだ!」と言っているのと変わらないと周りは感じてしまうんじゃないかと
周囲への感謝も感じられないし、周囲を信じて可能性を探った感も無い
何を根拠に「出来る」と言っているのかもわからないし、今あるものを使いこなせない事は他でも変わらないでしょって思われてしまうんじゃないかなって思います
この現状への感謝が、根拠の無い自信に対する不快感の理由なんじゃないかな
ちなみに理論的な思考に基づく自信も確かに大切だけど、そんな自信を持つのはなかなか難しいなって思います
ですが、現状にある物の可能性を探るのって実はそれほど大変では無いのでは?って思います
今ある物や人を信じて任せてみることで、自分とは違うその人ならではの力が発揮出来れば、人の数だけアイディアはある訳で、それを引き出せる人は、他人に対する感謝や信頼が出来る人望がある人なんて言うのかもしれないです
根拠って、実は現状への感謝?
そこストレートじゃないかもしれないけれど、「根拠の無い自信」って聞くと、やっぱりちょっぴり横暴で感情的なイメージしか感じられないかもしれないです
結構深ーいカモ
これ、どなたかが事務所を退社する時に感じた不快感です
去る時に分かるその人価値や思い
新しい人がグループや会社や地域に入ってきた時には多かれ少なかれ反発がある
反発が物凄い強い人とさらっと馴染む人がいるとは思うので、そこで反発の強い人の方が多分影響力は大きいのだとは思うけれど、それがいい影響力なのか、悪い影響力なのかってその人がいる限り実はよく分からないなって思うんです
実際、とっても素敵な人でも実は「いなくなって欲しいわ」って思われている人もいるだろうし、必要悪みたいな寄生虫っぽい人で周囲の居心地がいい人だっているんだと思うんです
そこにいる限りどんないい影響力なのか、どんな悪い影響力なのかなんて全然分からない
だって、日常だもの
でも、いつかそこを去る時にその人の価値とか、その人の影響力とか、その人の今までの姿勢とかが分かるなって思います
周りをバカにしていれば、離れてもわざわざ付き合う人はいませんし、義務以外の事は自分も周囲もやりません
そういう人は、ステップアップしていても、せっかくの人の縁や思いを活かすことは出来ません
逆に、どんなにそこで煙たがられていた人でも、周囲に敬意を払っていたり、出会いや思いを大切にしていた人はそこを離れたとしても、そことの縁は切れず、縁を活かして次のステップに進むのです
何かがあったら損得抜きで駆けつけるような他人にいつか出会えるかもしれないです
どこに円満か?誰と円満か?は多分、転校や転勤や退社や長期休業や引退等をしてその場を去った時にしか分からないのかなって思います
どんなに揉めた時があっても、お互いが認めていれば、関係は元に戻ると思います
人をバカにする人は、ちょっとずつの縁を活かせず、結局その人と付き合う事で得が無いと関係が維持できない様になっちゃうかもしれないです
人の心は繊細です
ちょっとでも上から人をバカにする様な言葉を発したり、そんな思いが伝われば、その人のその思いは残ります
多分、ずっと…
どこかでチャラになるほど軽いものでもないのです
大きな出来事があって、誰かが動く時にその人の価値って分かります
何とかしてあげたいって思う人が多い人はきっと心が素敵な人なんだと思います
と、ここ最近の芸能人を見ていても思います