心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

根拠のない自信への不快感の訳

f:id:pilatesno-1:20210219005749j:plain「俺ってできるぜ!」「私って最高!」って、大した事をしていない人が他人が言っているのを聞くと、その人に寄っては物凄い不快感を感じる

 

これっていったい何だろう?

って思っていた

   

おまけにそんな風に根拠の無い自信を持っている人が、どうにも頭がよく見えない

 

確かに、結果から導き出す過程を理論的に構築する事は、大切だし、難なくそれをやってのける人はとっても頭が良く見える

 

でも、結果が分かる事ばかりではない

 

結果が分からなくても、論理的に物事を進めることは出来ると思うんです

 

論理的に物事を進めると、精神的な安定が図れるので、理論的な人はテンションの上がり下がりが少なくなるんだと思います

 

結果、常に冷静な人は頭がよく見えたり、見ていて安心なんだと思います

 

もしかしたらそれが裏付けがある自信に見えるのかもしれません

 

って、いう事は裏付けの無い自信を持っている人に足りないのは、安定や論理的な思考なのか?とも思ったけれど、何だかピントがズレている様に感じる

 

だって、頭が良くても悪くても、流石に不快感なんて感じない

 

じゃあ、何よ!って思って違う視点から考えてみました

 

同じ事をやっていても、現状で関わる人達への感謝があると全然違うのかなって所から掘り下げます

 

例えば、現状を打破しようとする時に、今持っている周囲全ての可能性を高めて自分の目指す所に向かっていく人と、現状から飛び出して自分の目的を果たす人がいると思うんです

 

全く違う分野へのチャレンジなら、もちろんそこを飛び出すために後者を選択する事は理解出来るし、試行錯誤をした後にそこの人達の推薦の元外に出る様な場合は、他人に対する敬意や信頼を感じるけれど、何もせずに飛び出して「違う場所で自分は出来るって信じてるぜ」って言われてしまうと、「周囲で支えていた人達の能力が無いから自分の力が発揮出来ないんだ!」と言っているのと変わらないと周りは感じてしまうんじゃないかと

 

周囲への感謝も感じられないし、周囲を信じて可能性を探った感も無い

 

何を根拠に「出来る」と言っているのかもわからないし、今あるものを使いこなせない事は他でも変わらないでしょって思われてしまうんじゃないかなって思います

 

この現状への感謝が、根拠の無い自信に対する不快感の理由なんじゃないかな

 

ちなみに理論的な思考に基づく自信も確かに大切だけど、そんな自信を持つのはなかなか難しいなって思います

 

ですが、現状にある物の可能性を探るのって実はそれほど大変では無いのでは?って思います

 

今ある物や人を信じて任せてみることで、自分とは違うその人ならではの力が発揮出来れば、人の数だけアイディアはある訳で、それを引き出せる人は、他人に対する感謝や信頼が出来る人望がある人なんて言うのかもしれないです

 

根拠って、実は現状への感謝?

そこストレートじゃないかもしれないけれど、「根拠の無い自信」って聞くと、やっぱりちょっぴり横暴で感情的なイメージしか感じられないかもしれないです

 

結構深ーいカモ

 

これ、どなたかが事務所を退社する時に感じた不快感です