心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

実は多様性を認めてはいない社会

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多様性が認められる社会を目指して!なーんて世の中の風潮だけど、私にはどうにもそちらの方向に人々が向かっている様には見えない

 

太っている人は採用しない会社があっても、容姿が整っていない人を採用しない会社があっても、それは社長の考え方なのだから、そういうのをやめましょうと規制をしたところで、根本は何も変わらないと思うんです

   

そんな会社に、もしも太った人の採用枠があったとして採用されたとしても、その会社での太った人の評価は絶対に上がらないし、元々そんな差別がある会社で太った人の居心地が良い訳がないのです

 

 

結局、「差別をしないようにしましょう!」「いじめをしないようにしましょう!」と多様性を認める雰囲気を作っても、その人の中に差別がある限り、多様性なんてかけらもなく色々な人を許容する心が育つ訳ではないのです

 

 

容姿で判断するな!なんて言わなくても、世の中容姿だけで判断する人ばかりでは無いのに、容姿で判断する事に目くじらを立てるのは、実はその人自身が容姿を凄く気にして、多様性を認めてはいないなと思うのです

 

ランキングをつける事も、その人のランキングであって、自分は違うなって思って見ていればそれでいいのかなと思います

 

そこで、「それにランキングをつけるのはおかしい!」って言うのは、あなたの価値観を認めない!って言っているのと変わらない

 

容姿で判断しても、順位をつけられても、バカだと言われても、本当にバカになっちゃう訳じゃないし、その順位で地位が決まったり税金が安くなったりするわけじゃない

 

その人はその人で、本当は何も変わらないのに、変わってしまうのは、自分がそれでいいと思えないからなのです

 

そうは言えども、他人の評価を気にしないで生きていくのは難しいと思うんです

 

だから、やっぱりバランスなんだと思います

 

アメリカでの雇用とかを見ても、規制しなければいけない位、心の奥底まで差別があるんだと思います

規制をかければかけるほど、表向きだけの平等を作り、中身とかけ離れた理想の社会ができていくのかもしれないです

 

多様性が認められる社会といいながら、多様性を強要する社会に向かっていくのかな

 

多様性を強要する社会は、人や物の小さな違いを見つけて、判断基準を細分化しながら、アクセサリーケースのような細かな箱に収めて行く様な社会

 

今はその箱のどれからも一つずつ選ぶ事が、平等で多様性を認める事だと多くの人が思っていそうで、なんか違うなって思います

 

人の良いところや悪いところは色々あるよねって誰もが思いながら、自分がやりたい事がキチンと出来て、他人がやりたい事も認めてあげれる事が多様性がある社会って言うんじゃないかなって思います

 

なかなかのバランスの持ち主じゃないと、そんな社会にいる事ももしかしたらしんどいのかもしれません