心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

子供の頃の記憶が薄いのは(記憶と成長)

f:id:pilatesno-1:20210213205827j:plain初めから何でも出来るなら、頑張って練習する必要なんて無い

産まれてすぐに立てる人なんていないし、人間出来ないことばかりだ

小さい頃は何でも一番出来ないし、やっても失敗ばかり

失敗ばかりを全て記憶に残していたとしたら、新たな事にチャレンジする力が無くなるかもしれない

でも、ありがたい事に小さい頃の記憶ってほとんど残っていない

何にも出来ない自分の記憶なんて引き出しは10歳位になると開かなくなる

小さい頃の記憶が薄いのは、この何にも出来ないしんどい時間を忘れるためかもしれないなんて結論を出してみた

出来ないことばかりで悔しいばかりだと、人間は自己肯定感が低くなる

出来た経験や評価される自分を見ながら、段々と自己肯定感を高めて、いづれは誰とも比べず自分で自分の自己評価をしていくし上げていく

この過程のなかで、周りを見ながら自分の評価をする時こそが思春期なのかもしれない

だから、思春期は周りとの関係性を築くのが難しいのかもしれない

周りを見ないといけないから、観察力をつける

記憶に留めないと比較は出来ないので、記憶が必要になるのかもしれない

そして、のちに自分の評価を自分でできるようになると、客観的に自分を見れる様になる

自分を客観的に見た記憶を留める事が出来るようになる

自己評価が低い自己愛性人格障害者のような一人達が、ただ大人になり記憶が出来るようになったとしても、出来ないことばかりで本当にしんどいのかも

本当はいらない記憶ばかりだし、忘れてしまいたい事ばかりなんじゃないかと思う

だから、都合の悪い事は引き出しから出てこない様にしてしまうし、平気で記憶を書き換えてしまうのかもしれない

人間は本当によく出来ている

ある程度の年齢になって、記憶して置くことが出来るようになるなら、人との比較を経て、自分を俯瞰で見られる目を持ちたいし、そのために記憶を使いたいななんて思う

思春期の頃の人との比較や心の不安定感はもしかしたら誰もが通らないといけない成長の過程で、仕方がないことなのかもしれない

もちろん、そこから成長しないといけないし、成長出来ない人達もいるだろう

でも、通る道だと思えば、ちょっぴり許せることも出てくるかも

自己愛性人格障害者は、大人になっても自己評価が低く、6歳以下の精神的成長だ

その取り巻き達や翻弄される人たちも、16歳位までのやっと人との比較が出来るようになった人たち

自己評価をキチンとして、安定感を保てる様になったら大人だ

見た目や年齢とは関係なく、人をそんなふうに見ると、日本に大人は少ないかもしれない

記憶が無い小さい時はきっと記憶することより大切な事が沢山あるのだろう

そんなことを考えていると、記憶が無い時の親との関わり方が、その人を作る大切な時間なのかな?なんて思う

大切にしてあげたい

記憶と成長って関係があると思うと不思議

年老いて記憶が薄れて来る頃には、またしんどい事ばかりで、覚えていると辛いのかもしれないよね