母親が自己愛性人格障害者である場合、子供の出来不出来はそのまま母親の評価になる
チームのトップが自己愛性人格障害者である場合も、チームの出来不出来はそのトップの評価となる
グループを率いるトップが自己愛性人格障害者である場合もグループの出来不出来はトップの評価となる
自分の評価のために自己愛性人格障害者達は釈迦力になるのだ
これ、チームや会社なら当然だけど、家庭や家族、グループや友達になると当然??ではない
だから、会社の社長やスポーツのチームの監督等には当然のように自己愛性人格障害者が多くなる
もしかすると、少し自己愛性人格障害者の気質を持っていた方が、大成するかもしれない
極度の自己愛性人格障害者は厄介だけど、別に悪では無い
母親として子供や配偶者を支配したり、父親として子供や配偶者に暴力を振るったり、ストーカーしてみたり、デートDVしてみたりしたら、全て悪のようだけど、誰もが持っている気持ちだったりする
他人との境界線が極端に曖昧になると周囲とのコミュニケーションが取れなくなってしまうだけなのだ
だから、排除することも無くすことも難しい
では、スポーツチームのトップが自己愛性人格障害者では無い場合、具体的にどう考えているかというと…
成績がいい場合は、選手が頑張ったから! 監督コーチはあくまでもサポート
逆に成績が悪かった場合も、選手や監督コーチが上手く調整出来なかったから! 監督コーチは今出来る最良のサポートをしているので、この成績が今の選手の当然の成績だと考える
もちろん、改善の余地があるから成績が悪いのだけれど、その責任をコーチや監督が全て負うわけでも無い
監督コーチ自身の評価は選手の成績にはあまり左右されない
自分の技術は勉強や経験の裏付けの元にあり、そこで自分のできる限りの事はするため、選手の成績が悪いくても監督コーチ自身の評価が下がるわけでも無い
改善点を一つひとつ潰していけばいいと思う
これが自己愛性人格障害者が監督コーチの場合は…
選手の成績が良かったら「やっぱりあの監督コーチは凄いよね」となる
選手の成績が悪かったら「あのコーチ力が無いのかな?」なんて言われている気がして、自分に自信が無くなる
そんな風には言われたくない無いから、新しい技術を取り入れてみたり、他のチームの真似をしてみたりするけれど、そこに根拠があるわけでもない
強いチームの真似をすれば強くなるだろうという比較のもとにやっている
都合のいいところだけを真似するので、それで上手くいかないと次の方法に移ったりして、なんだか芯が無い感じになったりする
上手くはまればラッキー!だから、もちろんそれで上手くいく場合もある
過去の栄光がある場合は、自分のやり方が正しいといい続け他のやり方を頑なに受け入れなかったりする
それ、全て自分に自信がないのだ
監督コーチとしての技術に勉強や経験の裏付けが無いため、成績の良し悪しによって、自分のやり方を真逆にでも変えられる
過去の栄光にとらわれると、他の人のやり方を受け入れるなんてプライドが許さない 劣等感の塊の心には、他人のやり方を認める余力はない
良い成績をとった時に「監督コーチのお陰です」言う人達でも、監督コーチが選手と並列の関係であり選手が心からの感謝を監督コーチに述べた言葉である場合と、監督コーチと選手が支配関係にあるため監督コーチを賞賛するのは当然の事として出てきた言葉では、全く違う
パッと見、分からないかもしれない
でも、そんな支配関係は凄い選手を育てる有名監督コーチに多そうだなって想像もつく
自己愛性人格障害者である親の場合は、自立した自己愛性人格障害者ではない監督コーチの「改善策を考えましょう!」なんて発言に「あんたの力不足なんじゃないの?」って言いかねない
本当に監督コーチの力不足の場合もあるけれど、そうでない場合は自分の子供の成績の悪さの責任を監督コーチに押し付けた結果のそんな発言だと割りきる力がコーチ監督には必要かも
自分の子供の成績の悪さを親の評価としなくてもいいし、監督コーチの評価にだってしなくてもいいのだから
そんな発言をする親たちは、そのうち「うちの子にはもっと子供を立派に育ててくれるコーチがいるはずだ」と他のチームに移るだろう
自分や自分の子供にはそのチームや監督では力不足だと言うだろう
親が子供のことを思ってする監督やコーチ、チームの移動に対する考え方も、監督コーチの考え方も自己愛性人格障害者かそうでないかは微妙な違いかもしれない
でも、子供達の成長には物凄い影響がある
全てが悪ではない自己愛性人格障害者という存在を見ながら、自分も含めて自立して生きていきたいと改めて思う