心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

自己愛性人格障害者の最後を考える

f:id:pilatesno-1:20210207003730j:plain自己愛性人格障害者の最後はとっても両極端

 
神様のようで洗脳された従順な家来(取り巻き)達に囲まれながら亡くなっていくか、自己愛性人格障害者が大っきらいな孤独に亡くなって行くか…
   
それは、外から見るともしかしたら分からないかもしれない
 
前者は、周囲が自立していない場合
 
結局、その自己愛性人格障害者が亡くなっても次の自己愛性人格障害者を探すのかも
 
後者は、周囲が自立している場合
 
とっても優しい周囲なら、一応見た目は普通に取り繕ってくれるかもしれない
 
ただ、結局心からその人を思う人はいなくなるのだと思う
 
自己愛性人格障害者の理想である、皆に慕われて居なくなったら周囲が寂しがる様な、ポッカリと穴が空いたような気持ちになる人なんて身内には居ない最後を遂げるのかもしれない
 
自己愛性人格障害者のお金や物で人を支配する手法によって、人生を乗っ取られた気分になる人は多い
 
そんな思いをするなら離れればいいだけの話なのかもしれないけれど、人は関わりを持って生きている
 
家族をも他人に思い、親を親として期待しない子供なんて居ないのだ
 
だから、心にモヤモヤが残るんだと思う
 
下僕として扱われたイヤーな思い
理想とは程遠い親の姿
 
最後は、自己愛性人格障害者の思うような最後じゃないかもしれないけれど、最後に恨みをはらせるような周囲ならとっくに見捨ててるだろうから、無茶苦茶な事はせず適当にあしらうのかもしれないななんて思う
 
亡くなった時に、思いの外さっぱりとした身内だったりするのは、そんなところなのかもしれない
 
これがお金や物で釣ったり支配したりする人だと、残るのは相続のいざこざだけなのかもしれないな