心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

自己愛性人格障害者が居なくなると寂しいの?

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グループの中の強烈な自己愛性人格障害者が複数過ぎ去った後はいったいどうなるのか?

強烈なのがいた頃は鳴りを潜めていた自己愛性人格障害者がいる場合は、当然前のその自己愛性人格障害者のポジションにつこうとする

それは当然っちゃ当然

自己愛性人格障害者の世界は下剋上

どんどんと出てくるのだ

ところで、自己愛性人格障害者がいた頃に対立関係でいた人達がいるとする

自己愛性人格障害者と対立するという事は自己愛性人格障害者的な考え方をかなり持っている

勝負損得が価値観の人

その人達は、自己愛性人格障害者が居なくなっても、自己愛性人格障害者の事が気になってしょうがない

対立してた人が居なくなるんだから、平和になるよねって思うけど、そうじゃない

その人だって、他人と競って自分を評価しないと生きていけない人達なのだから、競う相手がいなければ自分を評価出来ないのだ

新たに標的を探すか、元々いた自己愛性人格障害者をネットで追い回すかどちらかをしなくては生きてはいけない

これはその人にとっては生死に関わるような危機的状況なのだ

どこでもいい、自分と似た存在、自分と同化した長子と似た存在、次子と似た存在をどこかから探し出して、競い合う

だから、「あれ?あの人のこと大好きだったの?」と言いたくなるほどずっとその人の事を喋って追いかけ回している

自己愛性人格障害者は一人では生きていけない人達です

凹凸が合ってるからこそ、ターゲットにも取り巻きにも、対立関係にもなるんです

やっている事は犯罪だったら、キチンと訴えればいいのだけど、自己愛性人格障害者の一部を背負ってしまうと、犯罪の片棒まで担いでしまう

攻撃を受けて辛い思いをしている事は悲惨なことだけれど、それがどうして起こるのかを学習しないと、世の中のズルい人達に命を削らされて壊されてしまうかもしれません

自己愛性人格障害者が去ったあとにぽっかりと穴の空いた心が残ったら、危険です

逃げても、自己愛性人格障害者を恨む事で自分を維持している間は、影響も残ってるし、前には向けていません

まだ、自己愛性人格障害者が居なくなった寂しさなのかもしれません

評価する方法を他力ではなく自力に変えれば、その自己愛性人格障害者は勝手に自分の中から居なくなるのです

凹凸も自己愛性人格障害者には合わなくなるのです

苦しいかもしれないけど、そこを超えないと、自分でまた凹凸の合う自己愛性人格障害者を探してしまうかもしれません

ここをどう乗り切るか…

周りができる事は限られています

私には何が出来るのか…

それも同志と学習しながら挑戦してみようと思います