心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

(自己愛性人格障害者編)「例えば?」と聞かれる辛さ

 

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「いい旦那さんね~」という友達に「実は家では違うのよ」なんて言ってみる

 

「そうなんだ!例えば?」なんて返ってくる

 

結構普通の会話

 

でも、夫が自己愛性人格障害者だったとしたら、妻や子供がDVやモラハラや虐待に苦しんでいるとしたら、この会話はかなり厳しい

 

自己愛性人格障害者はとっても外面がいい

 

最高の夫に見られたい

 

それって、誰もがそうじゃない?って思うけど、度が過ぎている

 

外と内でそんなに差をつけなくてもいいんじゃない?って思うくらい

 

本人だけがそのかなり差がある自分を生きているだけなら構わないけれど、自己愛性人格障害者は周囲にもそのイメージを保つように無言の圧力をかけ続ける

 

 

 

これが、外でも内でも同じ様な人なら、嘘なんてつかなくてもいい

 

でも、内でのDVやモラハラを隠して外での素敵さをアピールしなきゃいけないなら、素敵さを強調させるものだけを外に見せなくてはいけない

 

自己愛性人格障害者は、外ではできる限りのいい人間を演じる訳だから、自己愛性人格障害者の周囲にその自己愛性人格障害者のイメージ作りの出来不出来がかかっている事になる

 

任務遂行の責任は周囲

 

お手柄は自己愛性人格障害者といったところだろうか?

 

もし、イメージが悪くなるならそれは自己愛性人格障害者が悪い訳ではなく、その周囲である妻や子供のアピールの仕方が悪いのだ

 

だって、自己愛性人格障害者は完璧だから…

 

そんなプレッシャーが周囲に掛かる

 

 

家の中で起きているDVやモラハラや虐待を表には出さず、外からの素敵すぎる家族のイメージに相槌を打ちながら、ホッとする反面どこかでこのしんどさに気がついてくれないか?と相手に投げ掛けた「実は家では違うのよ~」なのに…

 

その「例えば?」に答えられるのか?

 

「家では暴力が…」なんて、言えない

 

そこで任務は失敗に終わるから

 

任務を失敗した時は、責任をとって罰を受けなければならないから…

 

だから、他愛の無いことしか話せない

 

だから、助けなんて求められない

 

だから、そんな会話さえ辛い

 

自己愛性人格障害者の外に見せる素敵すぎる人物像は自分ではなく、「自分のイメージする素敵な人」だから、周囲の素敵な人や芸能人や漫画の登場人物

 

もしかしたら、そんな素敵すぎる人は存在しないのに…もしかしたらそんなにロマンティックな場面なんて無いのに…

 

だから素敵すぎて、だから周囲が演じるのも結構力がいるし、だからやっぱり辛いのかなと思います

 

幸せそうだけど…幸せから遠い

 

解決策はあるけど、頑張ってる周囲にとっても、自己愛性人格障害者本人にとっても苦すぎる薬で、実際は飲めない薬なのかもしれません