心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

排除する人は鬱陶しいと思う?

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皆で仲良くしようとしている時に、「あいつ鬱陶しいから排除しよう!」って言う奴っている


確かに、ちょっぴり乗り気じゃなかったり、乗りが悪かったり、面倒な人っていない訳じゃない

でも、誰かを排除するとその排除されてしまった人に罪悪感が出てくる人が何人かいる


そこまでしなくてもいいかもなって気持ちが残る

それと同時に、それを言葉や態度に出した人の印象が悪くなる

周りは、排除をする人を見て「あいつがいると皆で仲良くは出来ないな」ってなってなる


結局、排除された人が面倒なんじゃなくて、排除した人が面倒になっちゃうのかも

ただ、実際はそんな事を言う人の権限は強い

強いものに従ってる気の弱い人達は、その人に従うしかないし、排除されるのが怖い人達も権限を振りかざされれば従う

排除一つでいじめが始まる

でも、だからといって気持ちの中の「鬱陶しいな」って思いが消えている訳ではない

人と仲良く出来ない鬱陶しい奴に、周りは従っているという事実は変わらない


一番排除すべき人は、その人を排除した人なのかもしれないとも思う

ただ、その人を排除する事は平和なようで、同じ事の繰り返し

排除しないで共存していく道を探さないと、誰かの心に「鬱陶しい」が残ってしまうのかもしれないなと思います



ここからは我が家の子育てですが…

排除を条件に出しながら支配していくやり方は苦手です

子供達の「やりたくない」に付き合うのは大変だけど、「そんな事を言うなら行かないよ」「連れて行かないよ」って言うのは、苦手です

まあ、なので私は家族からは舐められるし非難轟々なんです

「やりたくない」「行きたくない」が甘えだと分かっているし、面倒だから放っておきたくもなりますが、そうやって面倒をかけて連れて行ってもらう事をしないと気が収まらない事情もあるんだと思います

結果、「面倒だし行かないって言うんだから置いていこう」って言った人間が一番面倒だなっていつも思います

ギクシャクしながらのお出かけで、一番煙たがれながら調整してばかりな毎日です

そんな中で思います

そもそも排除って簡単です
共存は難しい

でも、共存しないと結局上手くいかないのです

妥協点を見つける事は誰もがスッキリする結果にはならないのかもしれないです

誰もがいいんじゃない!って思えない結果が、一番前に進める選択なのかも

コロナとの共存も、自己愛性人格障害者との共存も、もしかしたら最良の選択なんて無いのかもしれないですなんて思います

私が納得する結果は、最良の選択ではないかもと思うと、この調整をしながら何となく進んでいる我が家はなかなかいい選択をしながら進んでいるのかもしれないです

私の思い通りに行ってしまった時は、誰かの不満が貯まるのかもしれません

妥協点がそもそも痛み分けなら、なるべくちゃんと痛み分けをしないといけないのかもね