協力を仰げる人と仰げない人の違いってなんだ?
人の協力を仰ぐとき、自己愛性人格障害者達はお互い様を強要する方法をとる
「皆さんやられてるので、やってください!」「皆で公平に分担しましょう」といったところだろうか
強要されると、人間は最低限の協力しかしない
皆がやっているからやるというスタンスだと、どうしても平等を求めてしまう
「あの人は楽な役回りだったのに私は大変だったわ~、ズルい!」「次回は早めに言って楽な役回りをゲットしてやる」
なんて声も聞こえて来るだろう
かたや、上手にまとめて皆の協力を得られる人達は、協力を強要することはしない
「出来るところで出来ることをしてくださいね」「今回できなければいつか出来るときになったらお願いしますね」といったところだろうか
こんなお願いの仕方では、協力者は集まらないだろうと、自己愛性人格障害者達は思う
だって、協力しただけ損しちゃう
協力した分は感謝されなきゃ損しちゃう
今回協力したら、次回はなにもしなくて良いと言われるくらいじゃなきゃ割りに合わないわ
なんて思っているのだから
でも、協力を上手に仰ぐ人達は目先の損得を考えている訳ではない
その協力者が今は出来ないのてあれば、10年後落ち着いたら自分ではない誰かに協力してくれればそれでいいのだ
そこにいる人がその場で全て平等でなくても、いっこうに構わないのだ
なぜか?
それは、その人が助けてもらった時があるからだろうと私は思う
親ではない他人を全面的に信頼して損得抜きで寄りかかった経験があるのだと思う
どこでお返ししても、どこで寄りかかっても損も得も無いということを自分自身で経験しして自らの経験で痛感しない限り、無償の協力を相手から受ける事は出来ないし、人に与えることも出来ないのだ
そういう人達は、何かに気を使うことなく、人に物を頼むことが出来る
何かをやってもらっても、罪悪感もない
その人に返さなきゃなんて思わない
もちろん、出来る時は出来ることを全て引き受ける
「面倒だから!」とか「役回りが違うから」とか「あの人はやってないから」とか「私は分からないわ」なんて事は言わないし思わない
そういう人には誰もが出来るときに出来ることで協力を惜しまないのだ
出来る人が出来る範囲で出来るように調整すれば良いだけで協力を仰いでもお願いする事も実はあまりないかもしれない
もしかしたら一生自己愛性人格障害者には分からない協力の仰ぎかたかもしれない
ところで、この上手な協力の方法を自己愛性人格障害者達はよく思わない
あの人とあの人は平等ではない!
あの人は毎回やってないのになぜ許されるの?
あの人は体が弱いのになぜ協力させるの?
と言う
この裏には、「平等ではないと損する人が出てきちゃうでしょ!」とか「体が弱い人を守るべき物としながら、何も出来ない困ったやつとバカにしてやる」とか…
同時に、体が弱い人に配慮出来ないその協力を仰いでいる人をもバカにしている
「そんなやり方をしているからだめなのよ」
「出来る人が出来る時にやるのではなく、出来ない人をちゃんと除外して排除した状態で平等にやらないからいけないのよ」
なんてところかな
そして、自分が配慮出来る気の利く事をアピールする
排除した人の分は皆が負担するのは当然!とする
排除するような人は迷惑と、人に排他的だ
もし、その自己愛性人格障害者がその人の分を負担するときは、それ相応のメリットがある
出来る自分をアピール出来たり、出来ないその人を貶められたり、排除した人を困った人扱い出来たり、恩を売ることが出来たりするような、ピンポイントでのメリットだ
でも、協力を上手に仰ぐ人には直近の協力で恩を売ることは出来ないし意味がないし、貶めることも出来ない
出来る自分をアピールすることは取り巻きやグループ内では出来たとしても、「協力する」と言った本人の意向を無視してその人を排除したとしたら、その排除された人はあまり良くは思わないし、周囲も自己愛性人格障害者を和を乱す面倒な人だと思う
でも、波風が立たないのは死んだも同然の自己愛性人格障害者は、毎度波風を立てようと声を荒げてあら探しに余念がない
組みたくもない人と結託してまで攻撃したのに、ただただ当て付けでしかなく、面倒な人達だなあ~としか思えない
そのうち自滅すると思うんだけど…
あの執着は凄い
あれで、周囲の協力や賛同が得られるのは当然だと思っているのも凄い