損する事と無駄な事は同じではない
自己愛性人格障害者は、損得と勝ち負けを追求する
損しそうな事をするのは、人生で負けたのと同じ
負けるのは、生きている意味が無いのと同じ
そして、損しそうな事や負けそうな事に時間を掛けたり労力を使う事は無駄な事、バカのする事と思っている
その反対に、得をする人や勝つ人は賢い素敵な人だという事になる
だから、得をしたり勝ったり成功するためにはどんな手段をとっても構わないという発想が出てくる
人を騙そうと、踏みつけようと、勝たなきゃ意味が無いから仕方がない事なのだ
これ、自己愛性人格障害者という極端な人達ではなくても、最近の人達の共通の認識として、かなり一般的になりつつあるかもしれないです
何かで負けたらそこまでの努力は無駄になると思う人と、努力の過程が素晴らしいと思う人がいる
常にそんな物差しで生活している人と、その物差しが存在しない人達がいる
損得と勝ち負けと有益か無駄かを常に精査しながら何かをする人達は、常に勝ちと得の為に自分の時間が使われているかを気にして過ごしている
隣の人と同じ得を得る為に、同じお金と時間が使われているかを確認しないと、損をするし負けてしまうし、無駄なお金と時間を使ってしまうと思う
人の為に自分の時間を使う事は、自分の結果にも繋がらず無駄な時間だし、出来ればそんな事に時間は使いたくないと思っている
だから「賢く生きなきゃね」とか「そんなの無駄じゃない?」とか、他人の優しさや思いを否定する
せかせかと自分の時間を有意義に使うことに躍起になってしまうのかもしれない
確かにパッと見、そんな人達は無駄な事を省いてとても合理的に生きていそうな感じにも見えるけど、負けたら0になる強迫観念みたいのと隣り合わせの毎日で、日々の選択が失敗に繋がる崖から落ちる事なのかそうでないかの繰返しなのでストレスもとても貯まるのだと思う
「このお金が無駄になっちゃう」
「この時間が無駄になっちゃう」
って、それが物にならない限り言い続ける
じゃあ、その物差しを使わないで生きている人って、どんな感じで生きているのかっていうと、損もあれば得もあるけど、ずっと損する事は無いと思っているのかもしれない
だから、ずっと得もない
そして、得する事が素敵な事ばかりでは無いと思っているのかも
得の価値が別に高くない
損の価値が特に低くない
誰もが無駄だと思っている事が無駄だとも限らない
幸せそうに見えても幸せかは分からない
自分がどう思うかで、その時間や物や思いや出来事の価値が変わる事を知っているので、その出来事があまり良くない出来事でも受け止められるのかもしれない
そんな物差しなら、他人に使う時間が無駄だとも思わないし、損するとも思わない
負けにだって物凄い価値があるかもしれないし、この先に繋がれば今が上手く行かなくても、大きな気持ちで見ていられるのかしれない
繋がっていたら得しそうな相手かどうかで、使う時間を変える事も無いし、自分や子供や夫が今どのような得や損をしているのかのチェックなんて必要ないのだ
そりゃー、ストレスのかかり方は全く違うと思う
もちろん、全てが無駄な事じゃない!なーんて事は無いかもしれないけれど、
何を今一番に考えたいか?
何を大切にしたいか?
何に時間を割くべきか?
どうしたいのか?
とかに、ちゃんと向き合える人が賢いのかもって思います
優先順位の低い物に限られた時間を掛けることは、もしかしたらその時は無駄かもしれないけど、それだって優先順位の付け方を間違えて次に活かせるなら、無駄じゃないし素敵な経験かもしれない
誰かに対しても自分に対しても、「そんなの無駄じゃない?」なーんて言葉は出てこない人達は、無駄な事なんて無いのと同じなのかもしれないな
失敗したら無駄になっちゃう人達は、成功する事が常に崖っぷち
毎日崖っぷちを歩き続けて成功と得を繋げて、ギリギリのところをやっとの思いで生きている
失敗した人や損をする人達を崖の底に落ちた馬鹿な人間だと思い、あそこには行きたくないと必死なのだ
どんなに素敵に見えても、どんなに幸せそうでも、自分以外の周囲は無駄だらけに見えているとっても残念な人達なのかも
近づいても、崖っぷちはその人しか歩く事の出来ない細ーい道で、同じところを歩ける人は一人もいない
「無駄だ」と叫ぶ人達は、多分物凄い孤独な人達なのかも
そんな人達が増えているなんて、そりゃーピリピリした世の中になるはずだな