きっとこの人はこう思うに違いない
自分の中で「きっとこの人はこう思うに違いない」って思う事が、共感性だ
共感性がある事は人の気持ちがわかる事
人間関係ではこれが大切だ
でも、共感性がある人は自己愛性人格障害者のターゲットになりやすい
そもそも、共感性が優れている人はなぜ優れているか?考えてみた
人間は、自分が経験した事しか分からない
どんなに情報が豊富な世の中になっても、体験した人と人から聞いた事では10と100もの差がある
もちろん10しか持ってないのに100だと勘違いする人は沢山いるし、知識として本で読んでも5しか受け取れない人や知識だけで15読み取れる人もいるかもしれない
でも、それはほんの少しの違いで大した違いではない
だから、人よりも共感性があるという事は、経験した事が多い事が大前提だ
何も経験したことの無い知識ばかりの人間よりも、その事を経験したことのある人に分かってもらえたら嬉しいし安心出来る
そんな人に大丈夫だよって言ってもらえたら、きっと大丈夫なんだって思える
自己愛性人格障害者は色々な経験をしているかもしれない
かなり波乱万丈だとは思うから
でも、その経験は成功以外は全く生かせない
特に、失敗した事は自分の奥底にある箱にしまってしまう
だから、共感しているように見えても共感する事も出来ないし、人に寄り添うことなんて出来ない
でも、自己愛性人格障害者では無い人は、辛い事は結構手前の引き出しにしまってある
誰かが同じ経験をすれば、きっとこう思ったに違いないというその相手への共感性は、必ず経験に基づく物だ
それは辛い経験であればある程、その人しか経験した事無い価値のある物であるはずだ
そして、自己愛性人格障害者は人の共感性を狙う
だとしたら、その経験や共感性は自己愛性人格障害者なんかに使うべきでは無く、同じ辛い経験をした人にこそ使ってあげるべきである
その経験の価値を自分で気が付かないと、辛い経験ばかりを積み重ねてしまうだろうし、自己愛性人格障害者のターゲットとしての人生しか歩めないなもしれない
でも、自分の経験の価値に気が付いて、それを誰かの為に上手に使えたなら、本当にその経験は生かされて、価値も上がり、その人が、その辛い経験を引き出しから常に出してもびくともしない強い心で前に進めるようになるのかもしれない
自分の価値を上げて行くことは、きっと経験を積んで、それを活かす事にある
今はまだ経験だけの自己評価の低い人は、その経験を活かして前に進む事が自己評価を上げる鍵になると思う
もし、知識ばかりで何も経験していない人が自己評価を上げたいと思ったら、その知識を経験すべく動かない限りは自己評価は上がらないのかもしれない
情報社会になって何でも調べられて何でもわかった気になる世の中になってしまったからこそ、知識だけの人間が10と100との差に何が存在するのかも分からず、その違いが自己評価を下げたり相手を羨んだり妬んだりする原因になっているのかもしれない
経験としての共感性を持って、それを活かして生きていける事こそが、その人が輝ける原因で、10と100との見えない差を人間が動物として感じているから、その輝きが見える人と見えない人がいるのかもしれない
そう思ったら、自己愛性人格障害はやっぱり動物的だし、経験もしているけどそれを活かせる術がない
ターゲットは経験をしているし動物的だけどその経験をまだ活かせてはいない
どちらも経験を活かさない限りは、中身はそんなに変わらないのかもしれない
一皮剥けて、外に飛び出してみたら、凄い世界に行けるのはどちらかな?
なんて思いなが、人の伸びしろを見てみると、面白いかもしれない
ちょっときみの悪い事だけど、辛い経験をした人を見ると、その人の未来が素敵になる事を感じられてワクワクする
そのままどん底人生を歩むか、キラキラした人生を歩むかなんて紙一重だと思うから、自分がどちらを歩くかは自分で選択すればいいと思う