心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

環境が悪いのは実は武器

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「環境が悪いから出来ない!」と言い訳をしながら、何かをやる人は沢山いる

 

それって、努力出来ない事を環境のせいにしているだけなので、環境が良くなろうと出来ないのは変わらない

 

環境が悪いからこそ、環境が整った人達とどう対等に競い合うかと考えるため、環境がいい人よりも努力する

 

環境が悪いと思っている人達は短い時間を大切に使うため、その内容も濃い

 

私の周りでは、環境が悪いからと環境を整えた人達は、その環境の良さの上にあぐらをかいてしまいその後環境を変える前よりも時間を無駄に使っているように見える

 

環境が悪くても頑張れた情熱も日に日に無くなりそれほどではなくなる

 

環境を変える前、環境を良くして時間を有効に使って今までの情熱を維持しながら上を目指す見通しのはずが、逆に環境を整えたのにその環境を無駄に使う事にイライラして、整えてくれた人に対する感謝も薄れる

 

情熱も無くなるし、時間を有効に使う事にも配慮出来ていない

 

結局、今ある環境を精一杯使ってみないことには、その環境では本当に無理なのかなんて分からない

 

整っていない環境で、出来る限りの事をしているうちにその環境ではままならないと周りが思えば、たぶんサポートしてくれる人は出てくるだろう

 

 

環境が悪い人達の悔しいという思いは、それだけで推進力になるだろうし、武器だと思う

 

環境が悪い事は、残念なことでも悲しい事でもない

 

そして、環境が良いことが幸せな事でもない

 

環境が良ければそれに感謝して、環境が悪ければそれを糧にして、サポートしてくれる素敵な人達に感謝して、何かを成し遂げていけばいいと私は思います

 

環境のせいにして環境を変えて、その環境に感謝しない人達は、本当に残念に思いますが、なかなか仕方のないことなのかもしれません

日々選択の末の今

f:id:pilatesno-1:20210307085144j:plainその人が何を選ぶか?でその人の性格や考えたは分かる

 

だから、今の職業はその人の選択の末の職業だし、身なりはその人の内側を表していると思うんです

 

そんなの当たり前だけど、結構盲点だったりしないのかな

 

服を自分で選んでいない事も「自分で選ばない」という選択をしているし、何もしていなくても「何もしない」という選択をしている

 

人の性にするために誰かに選ばせた事柄も「自分では決めない」という選択をしている

 

自分に自信がないから誰かの真似をしたなら「真似した人の考え方を選択した」のだ

 

自分では何もしていないようでも、全てが自分の考え方と選択に起因しているのだと思うんです

 

もしそうなら、全てを人のせいにして生きていくことだって選択出来るし可能なのかもしれません

 

なんて、真っ黒で大きな車にゴールドのエンブレムの車の中の短髪にサングラスで携帯片手のおじちゃんを見て思ってみました

 

車も見た目もそのまんま!!じゃない?

 

 

「自分の経験を全て糧にして生きていきたい」の意味

f:id:pilatesno-1:20210307085403j:plain 「どんなに辛い経験だって、全て糧に出来る」

「無駄なものなんて一つもない」

そんな風に思えるのは、別にその人が順調に生きてきた証ではない

逆にその人が波乱に満ちた物凄い人生を歩んできた証拠だと私は思う

本当に糧になっているかとか生かされているかなんて誰も見ていない物だし、なんの根拠も無い

何でも満たされた生活が幸せだとも限らないし、お金が無い生活が不幸せかも分からない

病気だからって残念な訳じゃない

結局、自分の生活なんてどんなだってはっきり言って幸せには全く関係ない

今ある生活や自分をどう考えるかが何より大切で、それ以外に幸せを形成する物なんて無いんじゃないかと思うんです

波乱に満ちた人生を「全て糧にして生きていく」という考え方で、嫌な出来事にも感謝して生きていこうと決めたその人の幸せの形が垣間見れる

だから、「全ての出来事に意味がある」と考える人が私は好きだ

私自身もドラマがseason10くらい出来そうな出来事を経験して、そんな風に思うに至った

なのに、周囲は私の事を「なんの苦労もしてない幸せな人」と思っている

他人の評価なんて当てにならない

ましてやそんないい加減な評価しか出来ない他人に幸せの評価をしてもらうなんて、バカらしい

だったら、他人の評価を気にすることなんて止めたら?なんて思う

ただただ順調に生きてきたら、たぶん現状に感謝する事なんて出来ない

何も無ければ、当たり前の生活がかけがえのない幸せだなんて感じる事は出来ない

自分が今の現状に感謝できて幸せだと思える方法が見つかればいい

そんな方法の一つに「全ての経験を糧にして生きていく」という考え方があるんじゃないかと思う

他にも方法は沢山あるかもしれないけれど、とりあえず今の私には、その方法が合っている

幸せを感じる方法が一つでも見つかれば、どんなことがあっても結構楽しく生きていける気がする

子供の頃の食生活はその人を作る

f:id:pilatesno-1:20210210234724j:plain結局、健康より大切な物は無いと私は思う

だから、健康的では無い生活に傾く人とはあまり合わない

健康に気を付けるとか健康的な生活をしようとか、そんな風に思わなきゃ健康な生活を送れないということは、たぶんその人にとって健康は非日常なんだと思う

そう思えてしまうということは、まだまだ健康に気を付ける事は出来るだろうし、たぶん健康的な生活なんて程遠い

生活は親が作ってくれたもの

もし自分が健康に気を付けなくても健康的な生活が送れているなら、親に感謝するべきかななんて思う

だから、私も親には不満ばかりだったけど、そこは凄い感謝している

食生活に気を付けても健康的な食生活には程遠い夫を見て、子供の頃の食生活の大切さを実感する

同じ物を食卓に並べていても、健康をチョイス出来ないし、それで満たされない脳が出来上がってしまっている

体が欲している物が必要な物のはずなのに、その欲求の向きが狂っている

そんな感覚をも退化させてしまうほど、子供の頃の家庭の食事は重要なのかもしれない

だからって、バランスのいい食事を与えれば良いのではなく、バランスがいい食事が楽しく食べられる事がいいのかなと思う

白ご飯が大好きで白ご飯しか食べなかった我が子にこの先一体どうなることやらと思っていた時期もあったけれど、その子も今ではビュッフェでも結構いいチョイスをしてくる

動かない時は食欲も湧かない、もしかしたら一番体に正直な食欲を示しているかもしれない

食事は楽しいし美味しいから今まで手を出した事もない食べ物にもたまーに挑戦してみる

ダメでも、数年後また挑戦してみる

それは、自分以外の家族と楽しく食卓を囲んでいるからこそ出来るんじゃないかと思う

夫の家庭は一体どんな食卓だったんだろう?

魚と野菜が嫌いなお父さんの元、子供達は野菜は食べていたと言っていた

けれど、実際初めていった夫の実家は無理して出したただ切っただけの山盛りのトマトしか野菜はなかった

味つけも濃く、味噌汁は倍に薄めても飲める様なものではなかった

揚げ物の山が並ぶテーブル

ここで育った夫には、私の食事は苦痛かもしれない

揚げ物なんてほとんどしないから、足りなければ買ってくる夫

当然かもしれない

これ、病気になって死ぬかもしれないと思っても治るものではない事に気がついた

もしかしたらこの人にとって健康的な食事は死ぬより苦痛なのかもしれない

雷に打たれても、無理なのもしれない

いつか不健康な夫の生活が変わる時があるなら、何がキッカケか興味が湧く

記憶喪失にでもならなきゃ無理なんじゃないかと思う位、子供の頃の生活が大切なんだと実感させられたここ何年

親にも子にも無理強いしたところでストレスになるだけだろうけど、もしも我が子に幸せになってもらいたかったら、楽しくバランスのいい食生活を心がけたらいいと思います

もし現在病気だとしてもその中で最大限の生活クオリティーで生きていることに感謝出来る人が私は好きです

それは、自分を大切にする事だし、周りや家族を大切にする事に繋がると思うから

ある程度年齢がいくと誰もが健康に気を付ける

生活のクオリティーが高い人ほど健康や食生活に健全なお金をかける

体が資本だと知っているからだ

だから、食生活を大切にする人で成功する人は多いし、生活の質は健康の質に比例してるんじゃないかなと思う

なんて、ピラティスインストラクターとしては思います

自立した人の結婚は素敵だ!

f:id:pilatesno-1:20210307085558j:plain 小泉進次郎さんと滝川クリステルさんの結婚!!

なんだか凄い

素敵過ぎる

お互いがゆったり安心してそうな関係の会見が素敵だなあと思いました

女性が結婚を決めるとき「幸せにしてもらおう」とか思って相手を選んだりすると、その生活が自分の理想ではなかった時は「選んだ相手が悪い!」となる

ハッキリ言って男性にしたら迷惑だと思う

自分の力で幸せにならずに、幸せにしてもらおうと他人に依存し、依存しているからこそ相手は自分の幸せの為にあるべきと思う

まあ、男性も「あなたが養ってくれないと生きていけないの」と言われることで、存在価値を見いだしていたりするので、それでももちろん関係は成り立つ

お金があれば幸せだし、地位があれば幸せだけど、それがなくなれば人間としての価値も無い

ただで家事をしてくれる便利な物だけど、尊敬するところなんてどこにも無い

お互いにずっと自立する事はないし、お互いにお互いは所有物

そんな関係はお互い自分の思い通りにいかなければ、不満ばかりの毎日かもしれない

お互いに刺激しあって成長することも無いだろうし、お互いを人として尊敬することも無い

そんな関係は見ていて寂しい

それに対して、この二人のように自立した二人が一緒になる結婚は、お互いの素敵な所を尊敬して、お互いを刺激しあって成長出来る

お互いが対等で信頼関係が築けていれば、不要な想像で不安になることも無く、安心してお互いの領域には踏み込まず生活を営むことが出来る

結婚の安心ってそんな物だと思う

そんな物かもしれない

自立した結婚で得るものは大きい

家族が増えることで密な信頼関係を築くことは、これからの二人の未来や政治家として生きていく上で物凄くプラスになるんだろうな…

ほんと素敵過ぎて、祝福以外何にも無い

このニュースで腸が煮えくり返るくらいうらやましい人っているのかな?

雲の上の人過ぎて、いないか…

なんだか幸せになれたニュースでした

自分を大切にしない人は人を大切には出来ないよね

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前にも書いてるかも

 

自分の事を「大したことがない」とか「出来ない」とか思っている人は、人を自分の頑張り以上やっていないと認めることが出来ないため、結局他人も大したことが無いと思ってしまう

 

自分の事を大切にして労ってあげられる人は、他人を大切に出来るし労ってあげられる

 

自分をキチンと評価してあげれば、他人も客観的に評価できるのだ

 

「自分は周りより出来る!」と過大評価している平均的な人は、周囲の平均的な人を自分よりも下に見る

 

同じ位だと思っている周囲の人達は下に見られたら不快だし、ましてや自分よりも出来ない人から「出来てない!」なんて言われたら、「お前には言われたくない!」となるだろう

 

逆に「自分は周りより出来ない!」と過小評価している平均的な人は、周囲の平均的な人を上に見る

 

同じ位だと思っている人達が上に見られれば、不快では無いかもしれないが「同じ位なのに!」と思う

 

ましてや、自分よりも出来る人が謙遜しているだけでなく自分自身を過小評価し過ぎて「自分は大したことがない!全然出来なくて周りに申し訳ない」とか言ってしまうと、周りは「私たちはあなたよりももっと出来ないから虫けらみたいってことかしら?」と思ってしまう

 

自分自身を俯瞰で見ることが出来て、キチンと評価して受け入れる事は、周囲の人達をキチンと評価出来るだろうという信頼を勝ち取る事が出来る最短の方法なのだ

 

大したことが無い人が外側だけ着飾って「凄いぞ!」って見せても、チラリと見えた内側で信用は無くなる

 

見た目ではない第六感が働く人なら、見えていなくたってメッキの下を見ることが出来るかもしれない

 

ただのメッキに騙されるほど単純な人ばかりでは無い

 

誰もが正当な評価をしてもらいたいし、出来れば自分の頑張りを認めてもらいたい

 

「この人なら正当な評価をしてくれそうだ!」と思う人の近くに人はいたいし、正当な評価をする人が「あの人素敵な人ね」と言ったら「そうか!」と思えるかもしれない

 

正当な評価をしていると思っている人に「頑張ったね」と言われれば、その言葉は信用出来るし、正当に評価されたと心が満たされる

 

 

それに比べて自己愛性人格障害者は、大変

 

劣等感の塊の上にメッキ加工をして、大きく素敵に見せながら周囲の自分よりも能力のある人達をもバカにする

 

近くにいたら、正当な評価をされない事は目に見えるし、目に留まって評価されれば変な評価が下される

 

そんな人の近くには誰もいたくない

 

取り巻きはそのメッキを本物の金だと信じて、金に自分も金だと認めてもらいたい人達

 

結局、金では無いものが金にはなれないけれど、なんだか変な評価なら金ではなくても金と言ってもらえるかもしれない

 

中身まで金かは、客観的に密度まで見て判断を下す物

 

密度が分からなきゃ、いくら金だといったところで評価もしないし買い取れない

 

「密度は計らせない!」なんて言われれば、信用も得られない

 

人間関係は信頼関係

 

他人より自分自身を掘り下げて考えた、評価の安定した人が、あっという間に信頼関係を勝ち取り、素敵な人間関係を作って行けるのだと思う

 

私もそうでありたいと思うけれど、自分を正当に評価するなんて難しい

 

出来ない事を出来ないと受け入れる事もちょっぴり悲しい事もある

 

まっ、年齢と共に出来るようになっていくことが出来なくなっていくことより上回っていけるといいなと思います

出来ると信じなきゃ出来ない

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習い事の先生の悪口ばかり言っている親子がいます

 

習い事は、そこで習おうと決めたのは大抵親や大人です

特別な事情がない限りは先生を変えることは可能なはず

 

でも、文句を言いながら先生や教室を変えない理由はその先生のメリットがあるということかなと思うんです

 

その先生に素敵な教え子を育てた実績があったりするのかもしれません

良いと分かっているけれど、自分が受け入れられないだけかもしれません

 

なにかを習得しようとするとき「出来る」と信じていれば大抵の事は出来るようになると私は思うんです

 

逆に「出来ない」と思っていれば出来る事も出来なくなると思うのです

 

お医者さんのおうちの子がお医者さんになったり、スポーツ選手の子がスポーツ選手になったり、芸能人の子が芸能人になったりするのは、親という見本が前を歩いていて日常的に「成れる」想像が出来るからだと思うんです

 

先生の言うことに意味があると信じていればきっと突拍子も無いことでも意味があると信じてやれると思うんです

 

例えば、試合の直前に気分転換をさせようと全然関係の無いことを先生が言ったとして、ハッと我に返って気分転換出来る人もいれば、「先生何やってるのか訳が分からない」と無視する人もいると思うんです

 

後者は気分転換できず、先生に対する不信感でその後切り替えが出来ない可能性だってあると思うんです

 

不信感が生まれれば先生の意見が耳に届かなくなることもあるかもしれません

 

その子を上手くしようとして先生が言ったことも、素直に聞けないで自分のやり方を強行したり混乱して上手くならない事だってあるかもしれません

 

結局、先生の悪口を言って習い事をしていては、その先生に教えてもらった事は無駄になってしまう可能性の方が高いと思うんです

 

結果、その先生の実績もメリットも得られないと思うんです

 

そういうときは難しいなと思います

 

もちろん、親が信用していても子供は「出来るわけない!」と思っている場合もあるけれど、長く習っているのもしそうなら、それは先生との相性が良くないのかも

 

「なんだか上手くなりそうだ!」と子供本人が思うと子供のスイッチは簡単に入るものだし、それを分かっている先生ならやりたくなさそうな子を無理矢理やらせる事なんてわざわざしないと思うんです

 

プイッと拗ねていても楽しそうだなと思ったら途中から子供達は入ってくるし、「やったら変わるかも」なんて思えばその場でやらなくても裏でやってみたりしています

 

「その先生から教えてもらっても上手くならい!下手になる!」なんて親子で言っていたら、時間もお金も無駄かもしれません

 

先生と生徒は信頼関係が全てです

 

そこが築けない場合は、上達も見込めないし、子供のスイッチも入らないかもしれないと思ってその教室を諦めた方がいいかもしれません

 

そんなことを書きながら、私も学校の先生には不信感があります

 

なので、子供達が学校の先生を選り好みするのは私にも責任があるとは思います

 

でも、習う先生で何かを好きになるかならないかが決まったりするのなら、学校の先生はせめて教える教科を面白く教える事が出来ないと困っちゃうといつも思うんです

 

小学校の先生が担任制で全教科教えてるなんて難しいかもしれない

 

何でも出来る先生じゃなくて「この教科を教えたら面白い!」って先生なら、沢山の子が勉強も好きになるし、出来るようになるかもって思います

 

習い事だって、そんな楽しさを教えてくれる先生を信じて習えば、勝手に上達するのかもと思います

 

悪口を言っている間は出来ないことを先生のせいにしていることは明白

 

教える側にも教わる側にも立つ身としては、お金がただただもったいないと思ってしまった出来事でした