心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

(発達障害者編)「例えば?」と否定される辛さ



 

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「たぶんうちの子発達障害だと思うんです」

母が言う

 

すると、話した相手が「例えば?」って聞いてくる

 

これ、母親は「きっとそんなの気のせいじゃないの?」って言われそうで物凄く怖い

 

「大したことじゃない、みんな子供ってそんなもんよ」って言われそうで話すことを諦める

話してもそんな風に言われると辛いけど、話さなくったってそんな答えが返ってきそう

   

発達障害ってなんだかわからない障害のせいにして、子育てが特別大変だと言ってるんじゃないの?あなただけ特別大変な訳じゃなく皆大変なのよ。子育てなんて大変なものよ。」って言われている感じ

 

「子供を、悪者扱いして自分の不出来を棚にあげちゃうダメな母親ね」って言われてる感じ

 

発達障害って多動とか学習障害なんかは分かりやすいけど、勉強できて静かでコミュニケーションが難しいなんていうのは、「勉強できておとなしくていい子ね~」なんて言われちゃう

 

母親はとってもしんどいのに、子供はいい子でそのいい子を障害なんて言ってる親ってどうなのよ!って責められる感じ

 

無視しても無視しても、そんな人がやってくる

田舎程、悪気が無いそんな人達が周囲にいる

 

本人は親切心で「うちの子と同じね~」って共感して、なんなら悩みも聞いてあげて親切だわなんて思っている

 

でも、小さな積み重ねは本当に辛い

毎日、毎回、些細な事が上手くいかない

 

手を変え品を変えやったって上手くいかない

 

発達障害って遺伝的なものも大きいので、両親のどちらかが持っているもの

 

自分であれば、その違和感を持ちながら一生生きていかなきゃいけないし、配偶者ならコミュニケーションの難しさに悩む

 

その時の体調や状況に寄って偏りの強さも変化するから、しんどい時は家の中で孤立する

 

 

そんな中の「気のせいでしょ!」

 

人に話さなければいけない時は、既にある程度片付いている時とはいえ、「またか!」と思う

 

どんなにまあいいか!と思っても、なんでちょっと否定的なんだろう?って思う

 

もちろん、とらえる方の劣等感もあるとは思うけど、そもそも劣等感も罪悪感もなく、障害者が障害者じゃなくなる社会って作れないのか?

「差別」じゃなくて、「違い」になることはないのかな?

 

ちょこっとの人と人との違いって、結構面白いし、それがなきゃ人間じゃないのにな