心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

適度な依存は悪じゃない

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依存ってそもそも何だろう?

 

ドラッグとかパチンコとかお酒とかじゃなくて…

 

「依存」を良く言えば、「頼る」ってことかな

   

頼るのは信頼の証だったりする

 

だから、誰かに頼られると人は嬉しい

 

ちょっぴりやってやるぞ!なーんて思ってしまうんです

 

頼られて頑張っちゃうパターンは小さい子供にだってある

頼られて必要とされて嬉しいのは人間として当たり前の気持ち

 

そして、そんなちょっぴりの依存はその場を円滑にしたり、人を成長させたりするいい効果もある

 

物への依存だって全てが悪い訳じゃない

 

杖があったらちょっぴり楽に歩けるならそれでいい

 

亡くなったおじいちゃんが守ってくれると思ってちょっぴり強くなれるなら、霊感なんてこれっぽっちも無くても、ずっと守ってもらえばいいのかも

 

たまに杖を使って歩いているならいいけれど、杖がなくちゃ歩けなくなってしまったら、杖の存在は大きい

 

精神的にも杖への依存度は高くなり、気がつけば杖無しで歩くことさえ諦めてしまうだろう

 

もしかしたら杖無しで歩けるかもなんても思わなくなれば、リハビリだってしないかも

 

たまにはお酒だって構わない

 

 

占いとか霊感とかにちょっぴり頼りたくなっちゃう時はあるかもしれない

 

人にだって頼りたくなっちゃう時はある

 

でも、どっぷり依存したらそれ無しでは何も出来なくなるかもしれない

 

それと同じ様に、頼られる方も頼られて必要とされないといられなくなってしまうかも

 

どちらも何かを決断する事をそこに委ねてしまって、お互いがお互いの思いを汲んでいるつもりで動いて決断を誰かに依存してしまう

 

とっても楽かもしれない

 

何かを決断しなければいけない時は、普通その決断に対して責任を負う

   

疲れているときに、もしかしたら間違えかもと思ってしなければならない決断は力がいる

 

けれど、誰かの思いに依存して、誰かの決断だと思い込み自分を動かしていくのは楽チン

 

何も決断せず、責任を押し付け、他人の思いと自分の思いを同期して生きていく

 

それが人と人との共依存

 

それが神様なら、神様と自分の共依存

 

それが霊なら、霊と自分の共依存

 

結局、依存とは自分の責任から逃げ回っている事

 

何かに依存度が強い人は、自分で自分の責任を取れない人

 

だから、約束は出来ないし、信用も得られない

 

当然と言えば当然

 

たばこやお酒など分かりやすい依存より、人に依存する方が見えないし気がつかないし実はとっても厄介

 

それにしても、何かに依存が強い人に嫌悪感を感じるのは、このためかもって分かった

 

その人を排除するのではなく、そっと、そこだけに触れないように付き合っていければ、いいなと思っています

 

適度な依存は悪じゃないから、そっと手を添えるような優しさで支え合う社会になるといいなと思います