心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

「平等に」「一律に」「公平に」の罠

f:id:pilatesno-1:20210215162056j:plain「平等に」「公平に」「一律に」って、凄く分かりやすい

なんとなく素敵に見える

 

だから、皆飛び付きやすい

 

今の時代、ネットでの情報も凄くて、誰がどれだけの利益を受けているかも知ろうと思えば知れてしまう

 

「公平に」扱う事は「一律に物を与えること」だと思っている人達は、一律ではない物を取り上げて「ずるいじゃないか!」と騒ぎ立てる

   

一律に物を与えれば、それがどんなに実状に合っていなくても、見た目だけで「不公平だ!」なんて文句を言ってくる輩は減る

 

だから、面倒な時は一律に対応すればいい

 

このコロナ禍において、国は一律の基準を設けて動きたい

 

だって、面倒だもの

 

でも、それでは世の中上手く行かない

 

小学校1年生と高校1年生の兄弟がいるとする

 

1日を好きに過ごしていいよといって、小学生と高校生に同じお金を渡してどちらも同じように放っておく親は少ない

 

高校生は放っておくけど、小学生には親がついて行く

 

渡す金額だって違うだろうし、自由と共に自己責任もついてくる

 

それって普通

 

ちなみに何にもお金を出さずに、自由にやっていいよ~って言われても、まあ出来ることは限られているはず

 

自由度も責任も金額を調整する事で規制出来ます

 

平等に小さい子も大きい子も同じ労力を使って育てている親なんていないでしょうし、基本的には兄弟は大人になるまで一律では無いです

 

でも、それが公平ではないかというとそんなことも無いと思います

 

もちろん、差別の凄い兄弟っていますが、それはまた別の話です

 

コロナ禍で、小さくて身動きが上手く取れなそうな地域には、ある程度の基準を国が設けて動いてあげてもいいけれど、国も地域も大人がまとめているはず

 

お金を渡して「自由にやって下さいね」って言っても成立するのが、成熟した地方自治のあり方なのかななんて思ったりします

 

たぶん結果、一律では無いし、公平ではないし、平等でも無いです

 

でも、それでいいのだと思います

 

一人一人のバランス、家族のバランス、地域のバランス、市町村のバランス、都道府県のバランス、国のバランスは、一律とか公平とか平等とかじゃないのかなって思います

 

公平とか平等とか一律は、他人との比較でしか分からない事です

 

他人との比較をいくらしても自分のバランスを取ることはできません

 

多様性を受け入れるとは、個々の人間がきちんと自立して、自分のバランスが取れる社会だと思うんです

 

今一番問われている事は、そんなバランスの取り方なのかもしれません

 

「行っちゃいけない!」って言われたから行かないとかじゃなくて、上手くバランスを取りながら動いたりとどまったりして生きていけばいいのかもしれないです

 

なんて思います

難しいな~