心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

仲良しをアピールする自己愛性人格障害者

f:id:pilatesno-1:20210217005015j:plain 自己愛性人格障害者に友達は少ない

そもそも、人間関係に並列が存在しない自己愛性人格障害者にとって、友達という並列の関係を築くことは難しい

自分を基本として、上か下か?得か損か?なんて考えてばかりの人と仲良くしたいと思う人はなかなか出てこない

だから、自己愛性人格障害者の初めのどこまでも世話焼きの優しさアピールの時期は仲良くしていても、中身が分かると周りはそっと距離を置く

でも、自己愛性人格障害者はそんな変化に気がつかない

自己愛性人格障害者は、人気者を夢見ている

それは、人から慕われる人ではなく、アイドルのようなカリスマのイメージ

彼らは、誰もが近づけば嬉しくて涙が出るような、そんな自分の将来を夢見ている

そして、それは誰かによって作られると思っている

そう、自分が努力して作るものではないと思っているのだ

だから、コツコツと仲良しの友達を作ってもあまり意味がない

そう思っているにも関わらず、仲良しの友達のいる人がとにかく羨ましい

そして、自分もそんな仲良しの友達を作りたいと思っている

ここにも物凄い矛盾を抱えて生きている

だから、人と話をするときはとにかく2人きりで距離を詰めて、大きな声で仲良しをアピールする

どこかに出掛けた事も、トイレに一緒に行った事さえ、他人に知ってもらいたいしアピールしたい

誰かと一緒にいるアピール、自分が友達が多いアピール、生活が充実しているアピール、セレブアピール、毎日が楽しさで溢れているようなアピール…

だから、インスタは自己愛性人格障害者にとっては最高のツール

嘘でも瞬間でも、そう見えれば構わない

仲良しなんてアピールする必要はない

そこに違和感を感じる事が、自己愛性人格障害者を知る第一歩かもしれない

自己愛性人格障害者は搾取しながら生きていく

f:id:pilatesno-1:20210302203953j:plain 自己愛性人格障害者は周りからあらゆるものを搾取しながら生きていく

労力もお金も気持ちや心などもありとあらゆる物をひとから奪って生きている

それはまるで子供のようだ

「○○ちゃん沢山持っててずるいから私にちょうだい」みたいな、そんな感覚だ

しかも、必ずしも自分より沢山持ってる人から奪っているわけではない

どんな貧乏人からも吸い上げる

お金が難しそうなら、気持ちや労力を惜しまない事を当然とする

自己愛性人格障害者がどんな組織を作っても、強制的だし意味のない面倒なことを強いるおかしな組織が出来上がる

皆が皆「あなたがちゃんとやらないとこっちが怒られちゃうじゃない!」って思っている、ギクシャクした組織が出来上がる

とにかく無難を装わないと面倒臭い

そんなに搾取される組織だからこそ、誰もが「損をしないように!」と思いを廻らせるのかもしれない

見てると気の毒だし、そんな組織から脱出出来ない人達が大変だなと思うけど、外から何か出来るわけではない

というより、自分で何とかしなければならないし、外から手を出すととばっちりも来るから何も出来ない

距離を置いていればなんとかなるものなのかな?

あの組織に私は心地よくいることは出来ないから、よく分からない

「搾取が凄いな~」とか、「あの人はあっちについたか~」なんて思いながら見ているだけ

どうすれば、あの人達と共存出来るのか模索中というかリハビリ中だ

共存って言ったって近づくのは嫌だけどね

自己愛性人格障害者は他人には興味がない

f:id:pilatesno-1:20210302203745j:plain 自己愛性人格障害者は他人の事ばかり調べているじゃない!

なんて思うかもしれない

他人の情報をせっせと聞き出すじゃん!って思っているかもしれないけれど、実は他人には全く興味がない

自己愛性人格障害者は、他人を通して自分を見ている

というより、自分ばかり見ていたいのに他人を通してしか自分を見れないから、他人との関わりを持とうとしているだけなのだ

そもそも、他人を通して自分を見るってどういう事か

分かりやすいのは、他人の評価してくれた自分

もうひとつは、他人の成績を見てそれより高い成績の自分を見る

見えた自分を自慢するおまけ付きだ

他人に関わるのは、あくまでも自分を見るため

自分を自分で見ることが出来ないので、この二つの方法でひたすら自分を見続ける

自己愛性人格障害者にとって、他人は自分を見るための道具でしかないし、情報だって自分を見るための道具

ターゲットに当たり散らして暴言や暴力をすることも、ターゲットに出来ない自分を投影してるだけに過ぎない

他人が気になるんじゃなくて自分か気になってるのだ

そんな風に思うと、道具としてしか他人を見ていないってとこに、凄く納得がいった

結局はあんまり近づかない方がいい

近づけば道具として使われるだけなんてバカバカしいし、そもそも他人に興味がない人とコミュニケーションが取れる訳がない

大嫌いな自分なのか?大好きな自分なのか?それすらも分からないんだろうから、ほんと面倒な人達だ

自分を見ていたいから、謝ってでも回りとの関わりを持ってないといけないとか、もう本末転倒かもね

自己愛性人格障害者の子供は兵隊さん

f:id:pilatesno-1:20210302211213j:plain 自己愛性人格障害者の親を持つ子供達は常に周りの情報を集めている

私の周りには自己愛性人格障害者の母親と娘のパターンが多い

子供達を比べて、我が子に努力をさせて、自己評価の低い自分の評価を上げているような人ばかり

子供達を比べるには自分の子以外の細かい情報が必須なのだ

親同士でも「どこに住んでいるか?」「旦那の職業はなにか?」「どんな家か?」なんて事は聞いて回るけれど、子供の細かな情報はなかなか分からない

子供が子供同士であそんだり、他の子と話したりする中で得た情報は親に逐一報告をする

「塾に通っているか?」「勉強はどのくらいしているか?」なんて事は当たり前だが、中でも私がかなり異常だなって思う事がある

同じ習い事をやっている子供達のおおよその練習時間と進捗度を把握する事

これをしている自己愛性人格障害者を見たのは、実は一人や二人ではない

自己愛性人格障害者の親や子供達が必ずやっているのかも?!と思うくらいよく見る

長く練習すれば、何でも必ず上手くなる訳ではないのに、他人の練習時間を把握したり、スケジュールを把握したりする事になぜそれほどの労力を使うのかが、私には理解出来ない

そのスケジュールの把握は、キチンと表やカレンダーとして整理されていたりする

その、私には意味を感じられない物への執着が、本当に気味が悪い

自分以外のカレンダーを作って、把握する

これが、行きすぎるとストーカーのようになったりする

「あー、そういえば○○ちゃんは今日は○時からピアノだったよね」なんて、何気ない会話かもしれないけれど、普通は他人の習い事の曜日や時間まで把握するなんてなかなか出来ない

ちょっと疑問に感じないといけないかもしれない

子供達の会話がまさか他人の家で表になってるなんて、誰が思うだろう?

あの兵隊は自己愛性人格障害者に忠実で気持ち悪い

家が近くもないのに「通りかかったら雨なのに洗濯物が干してあったわよ」とか言われたり、家の前の細い裏道を自己愛性人格障害者の車が通ってたり、子供が「お誕生日をしよう」とか言い出したりね

毎度、見るけどほんと暇な人たちなのです

ただ、本人はそんな要らぬ労力を使って要らぬ情報を集めないと比べるための情報もなく幸せを感じる事も出来ないので生きていけない

必死だ

常に忙しく駆け回って情報を集めてせかせかしているのかもしれません

兵隊達は手柄を立てて母親に愛されようと、せっせと働いているだけだけど、それにしても気持ちが悪いな

自己愛性人格障害者の親は「毒親」だけど、この言葉が苦手

f:id:pilatesno-1:20210204112547j:plain自己愛性人格障害者の親はいわゆる「毒親」だよね

 

それは分かっていたけれど、あまりこの言葉と自己愛性人格障害者を結びつけたくない自分がいます

 

毒親」ってエピソードとかを見ると、酷い人だと思うし、子供が可愛そうだとも思うのかもしれないけれど、その親にはその親の存在意義があるのではないか?なーんて甘い考えを持つ私

   

上手くいっている親子なんて一握りだと思うし親だって人間だから、狂ったエピソードなんて山ほどあると思う

 

それをどう乗り越えるか?って事だと思うんです

 

それを全て「毒親」という言葉で、親の否のみをアピールするやり方は、ただの責任転嫁で成長が無い気がします

 

もちろん、暴力や過干渉やネグレクト等を肯定しているわけでは無いし、絶対にしてはいけない事なんだけど、そうなってしまった親とそれと関わりを持って育った自分を認めてからでないと、人は変わらないと思うんです

 

毒親」という言葉で親を否定する限り、今の毒親と生活してきた自分を肯定しているわけで、自分の考え方のズレに気がつく事は無いと思うんです

 

多分、気がつく事はないけれど、いつか「毒親」に自分がなっている可能性も高いと思うし、自分が似てきた事に気がついたとしてもそれに嫌悪感を抱いて自分を否定する事にしか繋がらない

 

「ダメな親の子である自分もダメな親になったね」って事で、終わってしまうかもしれない

 

そしたら、ダメな親のせいで自分はダメな親になったって、責任転嫁を続ける

 

ダメな親になってしまった親の弱さとか、祖父母からの親子関係の難しさとか、人間と人間の距離の難しさなんかに少し目を向けると、仕方が無かったのかななんて気持ちがほんの少し芽生えるかもしれない

 

そこから、親との距離感を自分が考えられるかもしれない

 

 

脅迫されても、親子の距離を取り続けるのは、かなり精神的な負担を強いる

 

それが出来る強い心を持っている人なんて、なかなかいないと思うんです

 

配偶者が助けてくれたり、子供達を守るために強くなったり、友人が力をくれたりする事で、親との距離を保てるなら、自分を支えてくれる人に感謝出来ると思うんです

 

親も弱いし自分も弱いから、距離が必要だし、それを保てる自分は幸せだと思える時がいつか来るかもしれない

 

親は親で気がつける時が来るかもしれないし、残念だけど気が付かないかもしれない

 

でも、その人の学びだから仕方無いし、子供だからって、何かしてあげられるわけでも無い

 

親の事を子供が変える事も出来ないし、そもそも他人を変える事なんて出来ないと思うんです

 

毒親」って事で親を片付けてしまう方法はあるし、辛かったらそれでもいいとは思うけれど、そこからいつか脱出出来たらいいなとなんとなく思います

 

自己愛性人格障害者から逃げる方法は沢山あるけれど、それを一番阻止してるものは、自分です

 

「あなたのために」とどこまでも追いかけてくる親から逃れるのを阻止しているのも実は自分です

 

自分のために自分を大切に出来ないから、逃げる事が難しい事を、ちょっぴりでも分かれば、自分の辛さを認めて、今までよく頑張ったねと言ってあげられるかもしれないです

 

親子の関係って難しいけれど、人間関係の基礎を築いているもの

 

そこが上手く行かない人は人間関係が上手くいくことは難しいのかなと思うから、しんどい事も沢山あるけれど、どんな形であれ親子関係を大切にしてほしいと思います

 

遠く離れても、連絡を取らなくても、親や自分を大切に思っていれば、親孝行かもしれないです

 

同じ行為でも、親や自分を否定しているのであれば、それは親不孝なんだと思います

 

 

相手を決めつけてしまうとストレスが貯まる

理想を持つとか、出来上がりをイメージするって何かを成し遂げる時には、必要なことだと思う

 

でも、上手に目標を作らないといけないないのかな?なんて思う事があった

 

 

子供と行きたい美容室を探していた

 

どんな髪型がいいか?

どんな美容室を私はいつも選んでいるか?

 

そんな話をしながら、美容室を選んでいく

 

色々な人の担当したヘアカタログを見ながら、こんな髪型が良いかな?

 

どこが良いかな?

 

なんて話をしていた

 

そのうち、段々と具体的になってきた

 

長さはこのくらい

シルエットはこのくらい

 

「この髪型がいい」

 

「色を変えないからもう少し重くなるかもね」

 

なんて言うと

 

「じゃあこんな感じかな?」

 

と、違う人の写真を持ってくる

 

「多分、きっちりこれ!ってものは見つからないよ」と私が言うと「あー、もう決まらないし分からないから美容室も髪型もママが決めて!」と我が子

 

??

 

モデルさんと自分は違う事、髪質も違う事、美容師さんも違う事、髪の色も違う事を確認!

 

「だからその通りにはならないよ」と当たり前の事だけど確認

 

そして、どんなイメージ?優先順位は何か?を話す

 

普段下ろしているのか?

まとめた時の長さはどのくらい必要なのか?

 

なんていうのが最優先だよね、と確認

 

それをキチンと美容師さんに話す事

 

カタログを持っていくのは構わないけど、その髪型が自分の条件に合っているか?を聞いてみる事

 

それ以上は、具体的な出来上がりイメージは持たずに美容師さんを信じておまかせする事

 

なんて話をしました

 

 

これ、人間関係でもないのかな?と…

 

この人はこんな人だ!って思って違ってると、ストレスがかかる

 

その相手へのイメージが具体的であればあるほど、細かい事でずれている部分が気になって、物凄いストレスがかかってくる

 

目の前の人を自分の中でイメージする事は、大切かもしれないけど、それは自分の中で勝手に考えたその人

 

しかも、その人を勝手にイメージしたのに、そのイメージをその人に押し付けているだけだ

 

勝手に押し付けて、そうでなかった事にイライラとストレスを貯める

 

そんなふうに生きている人って多い

 

相手のイメージは自分の中にはそもそも無いと諦める事って大切だと思う

 

そして、そのイメージのすり合わせを上手に出来る事こそがコミュニケーションなのかな?なんて思う

 

イメージが違っていたら「違う」って言う事は悪い事ではないし、お互いのイメージを言葉で語る事も楽しい事だと思うと、コミュニケーションも楽になるし、上手くいくのかな?なんて思う

 

ストレスは自分が作るものだから、上手に回避できる所はしてみても良いかもしれないな

話したいなと思ってもらえる幸せ

最近、話したいなと思ってくれる人が増えてきた

とっても幸せな事だ

お母さん達から我が子に「ママくる?」と声がかかる

凄い嬉しい

しかも、私が話したくない人からは一切お声がかからない

これが何より素晴らしい

相思相愛??

私自身も、あの人に会いたいなって思ってその場に出向く事ってある

それを他人から思ってもらえたら幸せだ

単純におしゃべりしていて楽しい人が良い

喋ると疲れが吹っ飛ぶような人と喋るとどっと疲れる人がいるのだから、どうせだったら前者がいい

楽しいおしゃべりは、あっという間に時間が過ぎる

楽しい時間を過ごせたら、とりあえず「相手に感謝」なーんて思う

目指してなれるものでも無いけれど、そんな人に、なれたらいいなとも思っている

ピカっと光る人気者じゃなくていい

近くにいると安心出来る人になりたい

私自身もそんな人に助けてもらってばかりの人生だから、その人達の波長で生きていければいいなと思う

お声が掛かっても、他愛もない話だったりすると、益々嬉しいし幸せだ

そんな時間をくれたその人に感謝しよ!って思えた一日だった

自己愛性人格障害者が多い空間の裏でそうでない人のコミュニティーが着々と出来ている事に気がつく人はいない

そんなコミュニティーがある事に気がつけた事は、奇跡に近いかも