心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

妬まれるのをどうすれば…

f:id:pilatesno-1:20210209105245j:plainつい最近まで、妬まれてばかりの自分が本当にしんどかった

 

「なぜ妬まれるのか?」

「何でそんなに周りが突っかかって来るのか?」

 

何もしていないのに

 

なんて、思っていた

 

でも、最近それも楽になっている

 

多分、周りが変わった訳ではない

 

自分が変わっているのかもしれない

 

 

妬まれる時…

 

「相手は劣等感を感じているんだなと認識する」

 

多分、そこは出来ていた

 

劣等感を感じる人達は、なるべく努力をしたくない人達

 

今やっている事に向き合う事がそれほど好きではない人達

 

私自身、今は特に小さい事でも楽しんでやる

 

多分、妬まれる場面では大抵それを頑張っていた

 

今は、頑張らず楽しんでやっている

 

だから、劣等感を持っている人とはスタンスが違う!と諦める

 

まだまだ大した事のない自分と思って努力しなければならないと思うのではなく、楽しく辛いことにも立ち向かう結構頑張り屋な自分を評価してみた

 

そして、そんな私の近くにいる人がなかなかしんどいであろう事を理解した

 

自分がイヤイヤ取り組む事を目の前で前向きに突き進む人がいたとしたら、何だか負担になるかもしれない

 

自分が怠け者になった気分になるかもしれない

 

そりゃー、被害妄想だろう!ってことなんだろうけど、人は上手く行かない時は、他人に責任を転嫁したくなる

 

そんな風に人のせいだと思いたくなる

 

 

その突き進むパワーが大きければ大きいほど、そうは出来ない自分に劣等感を持ったり、羨ましいと思う事はあるだろう

 

だから、お互いにそんなテンションの合わなそうな人には、なるべく近づかない

 

並べられてもなるべく無視する

 

距離を取れるなら距離を取る

 

向こうから近くに来ても出来るだけ逃げる

 

だって気持ちが悪いもん

 

被害妄想は基本近くにいないと起きない

 

責任転嫁出来ない位置まで離れる事

 

人は被っているところが無いと、相手に自分を投影する事が難しい

 

だから、自分の情報はあまり出さない事

 

「あー、おんなじ」って素敵な事だけど、相手が大丈夫だと確認できるまで、その距離は縮めない事

 

そして、なるべく自分に正直にいる事が大切

 

「あの人、苦手」と思っている人とは、仲良くしない

 

誰かが苦手なら、その人といる時にニコニコなんてしなくてもいい

 

その代わり、イヤ!って感情を出す必要も無い

 

私だって、出来れば皆と仲良くしたい

 

でも、仲良く出来ない人はいる

 

イヤな感情を出すのは、自己嫌悪の気持ちが出てくるから出来るだけしない

 

自分の感情と反対の感情を表に出すのは、イヤな感情を表にだすよりストレスがかかるから、それもしない

 

そんな面倒な事は出来るだけせず、イヤな感情を出さなくてもいい位置まで離れる

 

遠くで「あの人苦手だ!」って言える所を確保する

 

出来るだけ、素直な自分でいれるように心がける

 

その人の前でも「苦手」、皆の前でも「苦手」を貫くと、「嫌い」が減る

 

苦手を出すと、相手も近づいて来なくなる

 

「苦手」が本人に伝わっても、本当の事だから、否定しないでいい

 

嫌いじゃなくて苦手だから、喋ることも出来る

 

好き嫌いをはっきりさせずに、気持ちだけでも少し離れる事が大切なんだと思う

 

なーんて事をしていると、自分の評価が段々と上がる

 

それと同時に、他人の評価も上がっている気がする

性格を買われた役回りも増えてきた

 

気がつけば、自分が相応だろうと思っていた立ち位置より遥かに上を目指せる位置にいる気がする

 

結局、前の自己評価はかなり低かったのだ

 

最近は妬まれる事は少ない

 

少しずつだけど、素直な自分でストレスを回避出来るようになっている気もする

 

妬む人とも同じ土俵に立たずに「大変だ」と寛容に見れる

 

なんとなく、今の自分の方法でいい気がする

 

人それぞれだから、何が正解から分からないけれど、見つめる事が好きな人なら、考えて理論付けて片付けていく方法ってありなのかなと思う

 

自分に原因は無い!って思うかもしれないけど、やっぱり分かりにくい人は、誤解されやすい

 

周りに分かりやすく安定感をもって生きていければいいんじゃない!と思う

 

それが、優しさだと思う

 

 

 

 

自己愛性人格障害者にくっつく人達

f:id:pilatesno-1:20210204094008j:plain自己愛性人格障害者の中に、見栄やプライドのために努力をする人達がいる

 

まあ、私の周りの自己愛性人格障害者の場合、実際努力しているのは子供達で、自己愛性人格障害者の母親が努力してるわけでは無いのだが

 

その自己愛性人格障害者の子供がちょっぴりイケていると、それに群がる人達がいる

 

これが、物凄い顕著

   

「この子と仲良くしておいた方が得だろう」とか「この子に良くしておいたほうが後々良いだろう」とか「このママと仲良くしておけば、うちの子も一目置かれそうだ」

 

と、親も子供も得しようと必死だ

 

損得勘定のみで動く人達を見ると、本当にゾッとする

 

自己愛性人格障害者はもちろんご機嫌だし、それに媚びる人達も自己愛性人格障害者親子がご機嫌な事に喜ぶ

 

でも、大抵自己愛性人格障害者の近くにいてもそんなに得はしない

 

自己愛性人格障害者は、実力以上に見せるのが上手いし、かなり見栄を張っている

 

お金持ちそうに見えても、カツカツかもしれないし、何でも出来そうに見えても、大したことがないかもしれない

 

媚びたり賞賛したりして恩を売っても何にも返って来ない事の方が多い

 

それでも、損得勘定で動く人達は、常に誰に付けば得かを考えている

 

その場にいる人の中でその人が得だと思えば、次から次へと手のひらを返したように得な方に付く

 

人にくっつく人種がウロウロしているところは、得な情報を見つけて自分だけ出し抜こうと動く人が沢山いるので、人の動きが激しい

 

しかも、べったりとくっつく

 

何か異変があると、誰もが敏感になり「あの人にあの人がくっついたのはどうしてか?」と探りを入れる

 

そして、また群がる

 

大抵は、どちらも自己評価が低く、どちらも似たような自己愛性人格障害者的考え方なのだが、それでも大勢集まってくると面倒

 

「何を得と見て、この集団が出来ているのか?」なんて見分ける必要も無いのだが、集団が出来ている中で、一人でいるにはやっぱり信念がいる

 

「あの集まりは自分には関係のない物だ」と分かっていれば、一人でいる事への負担は少し減るのかな?なんて私は思う

 

損得や勝負で人を値踏みする人達の動きが手に取るように分かれば、そういう人達を除いた信頼出来る人だけを探すのは案外容易だし、人間関係も意外とスッキリ出来るはず

 

それを分かってやるか、感覚でやるかって問題はあるけれど、そもそも自己評価の低くかった私は、分析した上で動く事の方が楽かもしれない

 

信念を持っている人って、そんなにゴロゴロいるんだろうか?

 

それこそ天才なのかもな〜

 

なんて、またまとまらない終わり方

 

 

 

音楽を感じる

ダンスなど、音楽に合わせて歌ったり踊ったりする事は、子供の頃は誰でも好きだ

 

路上でのライブ等に子供達が踊りだす姿が私はとても好きだし、そんな風に子供達を育てたいと思っている

 

世界中どこでも、言葉が通じなくても音楽に合わせて歌い踊る事は、楽しい

 

でも、大きくなると、恥ずかしくなったり、下手だからと、なかなか体が動かない

 

なんか、たかが外れる方法って無いのだろうか?

 

あの子供達の心の赴くままに動く姿を見ると、大人になってしまった悔しさみたいのがこみ上げてくる

 

「音を感じる」を育てたい

 

体を動かす楽しさを育てたい

 

勉強じゃなくて、習い事じゃなくて、一緒にいると体が動き出す空間を提供出来ればいいのかもしれないな

 

音を感じて心が弾むとか、テンションが上がるとかは素敵な事だから、日々の生活を豊かにしてくれるエッセンスかな

心が破裂する位嬉しい!って

我が子6才

 

たまーに面白い表現をする

 

「デザートにイチゴが出たら、心が破裂する位嬉しい!」と...

 

そんなに嬉しいなら、デザートにイチゴを出してあげたいかも?!

 

食べていても「ほっぺが落ちそう!」なんてなかなか今の子が言わなそうな表現を使う

 

いったいどこで覚えて来るんだか?と思うほど難しい言葉を使う時は、小さなおじいちゃんのよう

 

言葉は環境でしか育たないけど、どんなに環境が素敵な言葉を使っているとしても、その人が頑固だと何にも入ってこないこともある

 

言葉...育ちってやっぱり出る

 

でも、心が破裂するとかどんな育ちだろ??

 

ちょっぴり変わってるけど、可愛かったからいい

 

子供の表現方法は枠がなくて素敵だ

そっとそっと、この表現方法を大切にしたい

 

「生きている」を知るには「死」を知ること

人間はバカだ

 

「死」と向き合った時にしか「生きている」事を実感出来ない

 

どん底を見ない限り、トップがどんなに幸せな事かも分からない

 

でも、もし「死」を意識して「生きる」事が何なのかを考える事が出来る時間を与えてもらえたなら、そこからの生きている世界はバラ色かもしれない

 

「死」と隣合わせの毎日を過ごしている人達の人生こそバラ色だなんて、何だかちぐはぐでとっても不思議だ

 

どん底の人生だと思っている人こそが小さな事を幸せと感じ、幸せな人生を過ごす事が出来るなんて、何だか皮肉だ

 

人間はなんておかしな思考を持って生きているんだろう?

 

でも、きっとAIには絶対にない、素敵な感情なんだろうな

 

せっかく「死」を意識出来る状況になったのだから「生きる」を存分に楽しんで、今の幸せを噛み締めてこれから先も楽しく生きていきたいと思う

 

なんて「幸せ」なんだろう

 

この幸せな時間が長く続きますように!

自己愛性人格障害者の偵察兵

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自己愛性人格障害者は、家族や取り巻きを偵察兵として使う

自分が人に会えるほどの自己評価が保てない時は、配偶者をつかって自己評価が上がりそうな情報を集めて来てもらう

子供も「自己愛性人格障害者の方が素敵」という情報を探して動き回る

取り巻きがいれば、取り巻き達も「やっぱり自己愛性人格障害者は凄い」と絶賛できる出来事を探す

そして、逐一報告

でも、その報告の見返りなんてほとんど無い

自己愛性人格障害者は見返りがありそうだと見せつけて、その報告や称賛を手にするが、気がつけば普通の扱いを受けるだけなのだ

怒鳴り散らす事が、少しの間減る

いじめがほんの少しの間収まる

DVが自分以外の人に向く

冷静に見たら些細な事だし、正直メリットというかそこにいる事のデメリットばかりが目につくのだが、選択肢が「DVを受けるか受けないか」「イジメられるかられないか」しかなく、しかも損得と勝負のものさししか存在していないと洗脳されてからだと、もうその称賛や報告が最善の策としか思えない

気がつけば、自己愛性人格障害者の評価を得るために偵察兵として動く事が当然となり、自己愛性人格障害者の力になりたいと心から思い、その自己愛性人格障害者を立たせる事こそが自分の使命だと思ってしまうのだ

自分が自己愛性人格障害者にとって、一番の味方である事への誇りさえ感じられる

その忠誠心に私は危機感を感じて離れるが、本人は真面目に芯を持って仕えているだけなのだ

だから、偵察兵だけがいい人なんてあり得ないけれど、良い人に見えてしまう

その忠誠心と真面目さが全面にでているからそう見えてしまう

「私はあの人達とは違う」と言っていても、実は近くにいるというだけで、常にその選択を迫られている事に変わりはない

どんなに端っこの偵察兵でも、偵察兵の中の逆転劇を狙っているし、その情報集めに余年がない

これだけ中身が分かっている私だって、自己愛性人格障害者の多いコミュニティーにいれば、ふと迷うこともある

こんなに距離を置いているはずなのに、掻き回されると腹が立つ

偵察兵を一人二人と増やしていこうとするその姿も、気味が悪い

仕方がないのかと思いつつ、横目で眺めているだけなのだ

女の戦いは怖い!!

「あー、やあね、女の戦いは怖い、怖い!!」

 

自己愛性人格障害者の女性が言う

 

「その戦いを先頭を切ってやっているのはあなた」とツッコミたくなるほど、日々臨戦態勢だ

 

まさか、周りの皆がツッコミたかった瞬間だなんて、本人は微塵も思っていない

 

その鈍感力に拍手をしたい

 

配偶者はもちろん、子供も親も知り合いも自分の周りの全てを使って、何としてでも伸し上がろうとするその熱意は本当に凄いと思う

 

でも、自己愛性人格障害者の熱意は、そのやっている事にあるわけではない

 

その物凄い熱意は、全て周りの人を蹴落とす事に注がれるのだ

 

その強烈な違和感も、一部の感じられる人にしか分からない

 

その他の人は、その人がやっている事に熱意を注ぐ素敵な人だと思うかもしれない

本人ももちろん、自分は熱意のある立派な人だと思っている

 

 

だから、あの冒頭の発言

 

彼女のなかの自分は「健気に家族のために頑張る私、出来た母親」

 

そして、外から見たあなたは「家族をアクセサリーのように振りかざしながら歩く湯婆婆」

 

あのかけ離れた自分を、どうやって同期させるのか?と考えてみても、まあ難しい

 

そして、そのかけ離れた自分を認識している限り、ツッコミどころ満載な発言は止まらない...

 

湯婆婆は心を入れ替えても湯婆婆

 

そしてボーちゃんは、ずっとお外には出してもらえない

 

お外の世界は、ばっちいもんね

 

女の戦いは、自己愛性人格障害者達が主導して、自己愛性人格障害者達が競う世界

 

だから、絶対女性に多いと私は思っているのに、男性のパワハラやDVにばかり社会の目が光る

 

幼児教育が加熱するのも、ママカーストが激化するのも、自己愛性人格障害者が増えてる証拠

 

あの発言も、自己愛性人格障害者の多い認識の元に出ているはず!

 

湯婆婆だらけのあの世界にまた一人湯婆婆が増えるだけの事

 

何人増えたって、私にはあまり関係ないけれど、近くにいる人達には一大事

 

あの発言一つで、色々な事を思った瞬間だった