心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

暴力は自己愛性人格障害者のツール


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言葉の暴力も身体の暴力も、自己愛性人格障害者にとっては、一つのコミュニケーションのツール

 

暴力が無いとコミュニケーションは成り立たないと思っているし「暴力が必要な時だってある」というのが根本的な考え方

 

「犬だって云う事を聞かなきゃ叩いたり蹴ったりするだろう」と彼らはよく言う

 

そう、子供等は犬と同じなのだ

 

そもそも、人間関係を並列で考える事が無い彼らにとって、親子である場合は確実にそこに主従関係がある

 

字のごとく、親が「主」で子は「従」となる

 

子供は従うのが当然だし、その当然の事ができなければ、犬の様に叩いて教えなければ分からないと思っている

 

自己愛性人格障害者は子供には言葉も通じないし、理解出来る能力も無いと思っているから、犬と同じ意思疎通の出来ない動物なのだと思っている

 

そういう関係性を親子で築いていくと、子供は自分を犬だと思う

 

大人になって子供が出来れば、当たり前の様に、犬として扱う

 

だから手をあげる

 

こんなに暴力やハラスメントが問題になっていても、なお「言葉も理解できない犬になぜ手をあげてはいけないのか?」と疑問が湧く

 

服従させるためには、それしか方法が無いのに、なぜ使ってはいけないのか?」と思う

 

だから、暴力の連鎖は止まらない

 

自分が犬だった時期が無ければ、相手を犬として扱うことは無い

 

自分が犬だった時期が間違えていたと気が付くのは、師と仰いでいた人や自分のその時期を否定する事になる気がするのでなかなか難しい

 

やり方が間違えていただけで、それ以外の事を切り離せればいいのかもしれないが、例えば暴力を奮うは母を「母のやり方は間違えていたが愛情は人一倍あった」なんてそんな成熟した考えに至るのは難しいと思う

 

子供に暴力的に接しない人には、暴力というツールが人間関係において存在しない

 

根本的に違う人間関係を構築している人だと気が付こう

 

頭をコツンとしたりするのとは違った、自分の怒りに任せた行動に注意しよう

 

赤ちゃんでも、意思疎通出来ると私は思うので、赤ちゃんから人間として扱えるような並列の人間関係を築こう

 

なんて思う

 

お腹の中にいる時から、子供だって意志を持っている

 

意思疎通が出来無いのは、赤ちゃんの意志を読み取るツールの無い大人の問題かもしれない

 

頭に来て殴るのは「癖」だし、それが必要だと感じている限り治ることなんて無い