心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

GACKTさんって面白い?のその後

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GACKTさんについて、結局モヤモヤした気分で終わった記事をまる一日考えてみた

面白い人だと思ったけど私には素敵に見えない理由が分かった気がするので書いてみようと思う


GACKTさんの格付チェックはいつも凄い

お値段の高い物が素敵に見える味覚も音感も目も本当に素晴らしい



でも、人って安くて大好きな物って無い?

駄菓子とかもそうだけど、美味しくないのに好きな物とかも無い?

私の中でずっとなんとなく好きな「チョコミントアイスの不味いやつ」みたいな

できればちょっぴり粉っぽさがあればいいな
いかにも外国のお菓子みたいなチョコミントが食べたい

ちょっと前にのチョコミントが流行ったけどどれも美味し過ぎた

イメージしてるのとは全然違う

舌触りがザラザラしてて欲しいけど、体に悪そうなお菓子は嫌

多分、売れないから商品にはならない…


夫は「チョコミントは食べ物じゃない!」って言うから、まあ好みって人それぞれだよね


こんなところ


良い物を良いと感じることは凄いけど、他人から見てどうでもいい物にバカみたいにお金を掛けたり時間をかけたりしている人が、私は結構好きだ


その他人から見たらどうでもいい事って、他人から見たら価値が無いものだ

その人にしか見えない価値をその人が大切にしているという事は、その人が「皆のいい」以外の物差しを持って生きているという事になる

そんな人に出会うと、新たな発見があったり新たな物に興味を持ったり出来てワクワクして楽しい


GACKTさんには、私はそれを感じられなかったのかも

皆の良い物を素敵に思えて、皆の凄い物を揃えて、皆の凄いをやってのける


「皆の良い物を高くて良い物だと分かる物差し」

それは、外の評価と変わらないから、私には必要ないかもしれない


もしかしたらGACKTさんって今の時代の申し子みたいなものかも

あんな感じを今の世の中は目指しているんじゃないかな

完璧な…


絢爛豪華は素敵じゃない

それを突き詰めなきゃ、気持ちが収まらない何かがあるのかもしれない

あれ程の物が揃っても、「まだまだだ」と思う満たされない心が、何だか寂しく思えたのかもしれないな


素敵を山盛り並べたら最高に素敵になるわけじゃなく、一つの素敵を大切にする事が素敵に見える私には、あの生活がガチャガチャして見えて、沢山の素敵のどれもがレベルが上がった横並びの物にしか見えなかったのかな〜



どれか一つをキラキラと輝かせるほうが、やっぱり面白いかもな





GACKTさんって面白い?

f:id:pilatesno-1:20210213003850j:plain先日、テレビでGACKTさんの特集をしていて、思わず見てしまった

あんまり夜の番組って見る機会がないんだけど、たまたまね

凄くストイックな人だった

色々な思いを持って、生きている人なんだなと興味も湧いた

でも、近づきたくない


テレビ以外では見たくもない

絶対に関わりたくないとも思った

なんだろう?

あの派手な暮らしも派手な身なりも派手な人生にも興味が湧かない

素敵に見えない

ストイックさも優しさもその素敵な思いも、嘘じゃない事は分かるのだけど、何も共感出来ない


何だか全く違う価値観の違う生き物を見ている感じだった

多分、この人の求めている幸せを私が幸せだと感じることは無い

この人の思いに共感出来る事も無い

素敵な人だし、素敵な考えを持っている人のようだけど、何でこんなに受け入れたくないのかが自分でも分からない


なんだろう?

ちょっとストイック過ぎるのかな?

仕事に対してストイックなのは別にいい

でも、あのすきの無いインテリアや見た目などを見ていると誰一人入る余地がない


余裕をもって、いつでも受け入れるよってスタンスでいる事って大切な事なんじゃないかとあの人を見ていると思うんです


話しかけやすいとか、何でも相談に乗ってくれそうとか、そんな柔らかさや余裕ってなかなか身につける事が出来ないのかも


あんなに素敵な生活をしているのに幸せそうに見えないなんて、何でだろう

余裕やすきが無いだけで、あんなに物足りない感じになってしまうのかな?

なんか違う様な気がする


とりあえず、私の羨ましいはあそこには無かった


やっぱり私の幸せには豪華はそれほどいらないのかも

使える物は使える量あれば充分

それ以上あってもゴミ


心は逆に完璧じゃない方が素敵かも


素敵だと思いたい自分と近づきたくないと思う自分がいて、何だか変な気分だな


結局、この気持ち、書いても片付かないな





遊んでみました

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子供とこの円すいの細い部分を軸にして、口で息を吹きかけて一周回してみようという遊びをしてみました

軽くてかなり調整が難しい

でも、こんなのが楽しい


自分の息の調整をそっとしながらテーブルの上で楽しむ

これ、運動にも関係しているし、心を調整する事にも関係しています

集中しないと出来ないし、くだらないけど出来たら嬉しい

おもちゃではない物で大人が遊んであげると、子供は何でもおもちゃになると知る


7年前位かな、我が家に遊びに来た我が子の友達が「この家遊ぶものがない」って言っていた

そ、ゲームが無いと遊ぶものが無いって思ってる子は多い

7年前でそれだから、今はもっと増えているはず


もっと世の中おもちゃだらけで、遊具だらけ

ちょっと使い方を変えると「危ない!」「変な事教えないで!」と言われちゃう世の中だけど、ゲームが無くても楽しいかもね


想像力と発想力をつけて、頭をフル回転させて、楽しく自分の体をコントロールしてみましょう!





新しい先生に興味津々

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我が子の先生が、山にこもってしまったので、新しい先生を探しました

前の先生は素敵だったんですよ

初めの頃は、先生も我が子の自由さにわくわくしている様でした

でも、そのキラキラした自由に負けてしまうと思ったのかもしれません


子供の威力って凄いです
楽しんで子供が天真爛漫に動き出したら、大人の整った動きなんて負けてしまうのですね

自由のパワーがちがうんです

このままだと自分が一番にはなれないかもしれないという危機感から、我が子を放っておくようになりました

動いていい時間を制限するようになったのです


代わりに言う事をよく聞く自己愛性人格障害者の子供をよく見るようになりました


我が子は何かに気がついたのだと思います

途端に練習をあまりしなくなりました
レッスン中のトイレの回数も10倍位に増えました


そろそろ限界だなあと思ったそんな頃に、先生が山に籠もりました


多分とてもいいタイミングでした


そして、今回は新しい先生からの個人レッスン
キチンと教えてもらえる一時間を首をかしげながら楽しそうに動いています

ちゃんと見てもらえるって大切です

ついでではなく、対象を自分にして教えてもらえる事は子供にとってはとても大切なことなんだと、つくづく思いました


子供には全力で向き合わないと伝わりません

多分、大人よりパワーがあるのだと思います

もちろん、子供によると思いますが、我が子の場合パワーがあるので、中途半端に見ようとすると本人のパワーの20%位しか引き出せません

20%じゃ、何をしているのかさえ分からない触りの部分だけになってしまいます


私もレッスンする時に、その人のここに持ってきたパワーの70%位は使ってあげたいと思っています

いつも使える訳ではないですが、せめてその位使ってあげないと、満たされないなと思います


子供達は、親よりもパワーが無さそうにやって来ることが多いのですが、親の倍以上のパワーを持ってやってきます

しかも、子供達はそこで100%使ってもいいんです

パワーは倍、使えるのも100%となると、中途半端にやったらだめなんだな〜とわが子を見ながら改めて感じました


私の教室も子供だけでは無く、大人と子供が一緒にレッスンをします

ピラティスも年齢層が幅広く10代から90代まで参加します

違うパワーと違う理解度の人達を一緒に教える事は本当に難しく思います

私自身、人それぞれの70%を引き出していけるようになれればいいなと思います


とりあえず、今回の先生は我が子に全力です

我が子は100%を引き出そうとする先生に戸惑いながら、80%位の力を使って帰ってきました

また、わくわくするといいなと思います


習い事は先生との出会いですから、この出会いもいい出会いになるといいなと思います




苦手と向き合う楽しさ

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苦手なことに向き合うなんて楽しくない


でも、もし苦手なことがやり方次第でどんどんと得意になって行けると知ったら、苦手なことと向き合うことは、出来る未来につながる事だと知れる


その出来る未来が見られることがレッスン

出来る未来につながる努力が練習

   

なんでも、ほんとはそうだ

 

でも、実際はなかなか上手くはいかない


自分に合う先生に見つからないと、出来る未来が見えてこない


出来る未来につながる努力さえ出来ない

 

練習しても出来る未来につながらないかもしれない

そんな先生とは、ただ合わないだけなのかもしれない


そんな先生が出来ないわけじゃなくて、そんな先生とは今の波長が合わないだけかもしれない

 

自分の気持ちがその先生の言葉を聞けない時ってあるかもしれないです


先生の気持ちが空回りしているときもあるかもしれないです

 

でも、合わないのだったら仕方ない


楽しくないなら、どんなに周りが素敵な先生だと言っても、そこを離れる選択をすべきかもしれない

 

その代わり、もし合う先生に出会えた時は、ついていってほしいなと思います

 

楽しく苦手に向き合う事って出来るんです


そんな先生に出会って、出来ない事を楽しく克服していくと、未来が明るく見えて、未知の世界が無限の可能性を秘めた世界に見えてくるかもしれません

 

素敵だと思います

 

 

自己愛性人格障害者の情報開示なんて当てにならない

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自己愛性人格障害者が間に入ると、話が上手く伝わらない

もちろん、同じ話でも捉え方が違うから上手く伝わらない事って沢山ある

伝言ゲームだって、3人も通せば内容が変わっちゃう事はよくある

でも、自己愛性人格障害者の場合はちょっと違う



一つは、情報が都合良く改ざんされてしまう事

自己愛性人格障害者は、損得勝ち負けのフィルターをしか持っていない

そのフィルターを通してみて自分が負けそうな場合や損しそうだと思った場合、一部を改ざんして自分が勝った情報として伝えるのだ


もう一つは情報が小出しに出てくる事


例えば情報を入手してその場にいるメンバーに開示しなければならない事ってある

共通の認識が必要な場所、仕事だったり、グループだったり… 


そんな時、自己愛性人格障害者はどうするかというと、自分にだけ入ってきた情報の価値を探る

まず自分だけしか知らない情報にはそれだけで価値があると思う

だって、自分だけ特別に知っているなんて自己愛性人格障害者の大好きな特別感満載だから


その特別な情報をどうするかが自己愛性人格障害者の特徴

皆に教えるなんて馬鹿なことはしない

自分にとって有益な人だけに、その情報を価値が高いと念押ししながら売りつける


その情報に見合うお礼を相手から貰う意図が見え見えの押し売り


情報の価値は自分の価値だから、有益な情報は自分の価値を上げるためのアイテムとしてとても大切


もちろん、その価値とお得を皆にタダで開示するなんて勿体無い事はしない

自分のお気に入りの人だけに、売りつけながら開示していく



自己愛性人格障害者が近くにいるだけで、情報はキチンと開示されないのだ


自己愛性人格障害者からは、フィルターを通して改ざんされた情報か、一部にしか伝わらない売りつけられた情報しか出てこない


情報を知っている人と知らない人で対立関係になってしまったり、ギクシャクしたりもして、その対立の主導権を自己愛性人格障害者が握ってしまうのだ


毎度情報がキチンと伝わらないのは困るので、気がつけば自己愛性人格障害者に多くの人達がくっついて、売りつけられた情報の対価を物やお金や優遇で支払う事になる

「あんたの情報なんていらない!」とやってしまえば、確実に情報はストップしてしまうのだから、立場によっては逆らえない


その情報が無くても他に伝がある状態にしておくか、自己愛性人格障害者の情報がなくても気にしないか、どちらかの覚悟をしない限り、反発せずなんとなく情報を受け取りながら、そっと距離をとるのがいいのかも


まあ、本当は中身は大した情報では無い

どんなに価値があるように売りつけられても、周りをその情報を知っている人ばかりにされても、大した事では無いのだ

皆に同調して横並びになりたいと思ってもそんなことはせず、自分の意思を知って周りに依存しないで立ち続ける自己肯定感と自分を信じる力が宝物だと教えてくれている存在が自己愛性人格障害


そんな風にはなかなか思えないけど、そんな風に思えれば、今の世の中に必要なアイテムかもしれないけど…





自己愛性人格障害者のママの監視

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自己愛性人格障害者であるママは、子供の近くにピッタリとくっついている

 

とても子供の事を考えて、子供の為に尽くす、子供思いの素敵なママである

 

子供もとても行儀がいいし、いつも同じ子と一緒にいる

   

ママがいる時は…

 

ママがいなくなると、他の子と遊んだりいじめたり、のびのびしている

 

ママがいる時は、ママの言うとおりのママの装う素敵に合った子供の役目をしなければいけないので、そうではない時とのギャップは凄い

 

そりゃ、いじめの加害者と言われても「うちの子がそんな事する訳が無い!」と言うのも分かる

 

そんなママだけど、なんでピッタリと子供にくっついているのかなと…

 

 

子供はママが近くにいればキチンとお行儀良く振る舞います

 

それを自己愛性人格障害者は分かっています

 

だって、自分がそうだもの

 

「ここではちゃんとしないと怒られちゃう」とか「ここで笑っておかないと可愛がってもえない」とか、全て誰かが見ていて評価されるためにしか動かない

 

評価されないところで頑張ったって仕方ないのだ

 

だからもちろん子供が一番に評価してもらいたい親の前でキチンとしない訳がない

 

子供をキチンとさせるために母親は必須だ

 

そのために、ただそこにいる事に意味がある

 

他の子に対しても「あの子の親はちゃんと見てないから駄目ね」なんて言う

もちろん、ちょっと見てないと危ないんじゃない?なんて子もいたりはするけれど、別に危ないから見てたほうがいいと思っているのでは無く、子供は信用出来ないから見ていなければいけないと思っている

 

そんな自己愛性人格障害者である親達は、実は自分の子を見ていない

 

そんなにピッタリくっついて、まさか自分の子を見ていないなんてあるのか!と思うけど、他の子のレベル確認、成長確認、持ち物確認に必死だ

 

あの子のあの持ち物って、どこの?

 

いくら?

 

お母さんお仕事は?

お父さんのお仕事は?

 

あの子勉強出来るらしいよ

 

あの子上手になったね

 

兄弟の成績は?

 

 

なんて、情報集めに余念が無い

 

自分の子の事なんて興味もない

だって、子供は自分そのもの

見てなくても、私の思うように動くに決まっている

見ていなくてもキチンとやって欲しいと親が思えば子供もキチンとやる事が当然だし、そうではない場合などあり得ない

 

あっ、誰かに負けそうなら躍起になるけど、親が躍起になっても仕方ないじゃないと思う

 

もちろん、子供は親の気持ちを全部背負うので、親が躍起になれば、子供もなりふり構わず蹴落としていじめて親の立てたライバルを潰します

 

そんな自己愛性人格障害者親子ですが、親がいないとき、子供はのびのびしてるけど、それは一時的な事

 

親が病気で入院なんて事になって、べったりな親がいない日々が続いたら、さぞかしのびのびとやりたい放題出来るだろうと思うけど、そんな風にはならない

 

子供は、親にべったり依存している

 

それまでずっと自己愛性人格障害者である親の思いと評価のみで動く事しかして来なかったので、自分がどうするかを考える事が出来ない

 

評価してくれる事にしか価値が無いので、評価してくれる人がいないと、動けない

 

自分の思いも無く、評価も無いと、何をしたいのか?何をすればいいのか?全く分からなくなってしまうのです

 

結局、自分が動くために、自分を手足としてくれる誰かを探して依存するしか無く、親と同じ様な自己愛性人格障害者を探す事になってしまうのかもしれない

 

結構努力家なので、依存する人がいれば輝く事も出来ると思うんです

 

でも、その中身が幸せかどうかは微妙です

 

どんなに素敵に見えたとしても、親子共に本人が満たされる事なんて、一度も無いのだと思います