心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

「他人からの期待」ってなんだ?

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他人の期待を裏切りそうな場合…穴があったら入りたい!と思ってしまう

 

いったいこの「期待」ってなんだろう?って考えてみた

 

小さい頃「魔法が使えるんだ!」みたいな…嘘をついた事がある

 

大人から見たら嘘に決まってるけど…「嘘ついてました」って言えなくてバレるのが怖くて、翌日その子に会うときに穴に入れるものなら入りたかった

 

子供の頃のそんな経験をしながら、嘘って面倒なものだ!って気がついて成長していくのかも

   

「他人の期待」って、自分にとってどんなものかと考えてみたら、もしかして他人の期待では無いのかも??とか思って…

だって、他人がどう考えているか?自分にどれ程の期待を寄せているかなんて、結局のところ分からない

 

人は他人に期待をして、裏切られた時にイライラしたり怒ったりするけれど、それだって結構勝手な期待

 

他人に期待ばかりして、ずっとイライラしている人達は、何かを自分でやろうとはしていない

 

自分のやらなきゃいけない事を他人に転嫁しているだけなんだ

 

そんな責任転嫁ばかりする人との関係に信頼関係は無いのだから、怒りをぶつけられようと責任を転嫁されようと知らんぷりすればいいと私は思っている

 

だから、本物の他人の期待は背負わなくていいのかも

 

じゃあ、背負うべき期待ってなんだ?って考えた時、背負うべきものは自分に課したものだけなんじゃないかと思うんです

 

自分にどんな期待をかけるか?考えたら、私は大して期待なんてしていない

 

でも、もし他人に見せたい自分が今の自分と全く違っていたら、自分と自分の理想とのギャップは、自分の中の「他人の期待」として、背負うべきものになるのかもしれないです

 

そして、その中には嘘も入るのかも

 

自分の中の小さな風船を、大きく見せようとすると、そのギャップは自分への嘘として自分に課した「他人からの期待」に変化する

 

ギャップが大きければ大きいほど、「他人からの期待」が大きいって、本人が受け取って、その他人からの期待に押しつぶされてしまうのかもなって思うんです

 

見栄を張れば張るほど、嘘をつけばつくほど、なんだか他人からの期待が大きいって勘違いしちゃうのかもしれないな

 

自信がありそうに見える人や自己愛性人格障害者達が、突然何かに押しつぶされて、精神的な病に掛かったりするのは、そんなところなのかもしれない

 

素直に自分をさらけ出せる人は、他人からのプレッシャーも期待もそれほど大きくなく自分との対話をしながら生きているのかもしれないです

 

嘘をつかないで、見栄も張らないで生きていければ、楽かもしれないです

 

こんな事を書いている私ですが、ちっちゃい見栄はたまに張ります

 

大きな見栄は面倒なので、表をキレイに整える程度の見栄しか張りません

 

ちょっぴり他人の目を気にする事は、自分を律するのに一番楽な方法だと思っているので、ものは使いようだし、加減が大切なんだと思います

 

結局「他人からの期待」=「他人への見栄」なのかなあ〜

 

沢山見栄を張る人は、しんどいわけだね