心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

自己愛性人格障害者の「好き」

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自己愛性人格障害者は相手の事が好きか嫌いかは良く分かってはいない

もちろん、「愛してる」なんて言葉の中身も、「幸せ」の中身も良くわからない

世の中の人皆にとって不確定なこの言葉が、自己愛性人格障害者にとってはとっても苦手

だって、使っても全然実感出来ないんだもの


自分の中に好き嫌いの定義も幸せの定義も存在していないのだから


自己愛性人格障害者にとって、幸せは「誰もが羨む生活」

自己愛性人格障害者にとって、好きな人は「自分の役に立つ人」

愛してるは、自分の役に立つ欠かせない人に言う言葉

「自分にとって必要な人」と言えば聞こえはいいけれど、「役に立つ」が入ると…なんだか安っぽい気がしちゃう


自己愛性人格障害者にとっては物も人も損か得かだけだから、要するに「物凄い得しそうな人」が大好きな人で、愛してる人なのかも

誰もが羨む幸せも、段々周りは見飽きてくるから、常に上を目指さないと保てない

得も段々慣れて来るから、次の得を探しておかないといけない


そろそろ可愛い得を探そうか〜

そろそろ都合の良さそうな得を探そうか〜

ってなるのかも

そりゃ、浮気も不倫もするだろうな


なんて思う


誰かに好きになってもらう事は、相手の愛情を貰う事

貰えるものは沢山貰った方が得だから、沢山の人とお付き合いする事は自分の価値が上がる事 


逆に、誰かを好きになる事は自分の愛情をあげる事

なんだか搾取されちゃう気がするから、あんまり深入りしたくない

まあ、どちらにしろ奪ってしまえば満足だろうけど…

ちなみに、自己愛性人格障害者達には愛情にも価値の高い低いがある


相手の容姿が良かったり地位が高かったりして自慢出来れば、相手の利用価値はとっても高い

高い利用価値をゲットするためにそれなりの労力を惜しまないのは当然となる


当たり前かな?
今の時代、そんな考え方の人達が増えている


人間一人の価値なんて誰だって変わらない

好き嫌いは自分の心で決める

幸せは自分の中の基準がある


誰かが「幸せそう」と言ったから幸せになるわけじゃないし、沢山の友達がいる人が偉い訳でもない

他人の評価の中に生きている流行に乗っている人達は、一見幸せそうに見えるけど、幸せには遠い

もしかしたら一生、幸せを手に入れられないかもしれない

幸せそうに見える人本人が幸せかなんて分からないのに、幸せそうに見える人達を羨んだりやっかんだりする人達がいる

なんか、変なのって思います


結局、「好き」が自分の中に存在しなかったら、相手の「好き」はあなたの価値を上げるポイントみたいなものでしか無く、本当の好きは受け取れないのかもしれないです

自分も周りも自己愛性人格障害者の「好き」を好きと勘違いしてません?

まっ、私にはどうでもいい事ですけど…