心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

正しくなくても認められるといいね

f:id:pilatesno-1:20210204101714j:plain社会的に見て悪い事をする人が全て許せない!って人は多いのかな?

 

私は自分に害が無いなら、はっきり言ってどうでもいい

 

例えば、不倫とか…

   

誰が不倫してようが、自分の身内じゃなきゃ気にしない

 

その人がちゃんとした生活をしなきゃ私が困るわけではないのだから、悪い事かもしれないけれど私がその人を責める権利はないかなと

 

逆に、他人に対して「許せない!」ってなる思考はどこから来ちゃうの?って思う

 

そんな不倫について、もし不倫している人が自己分析をちゃんとして、「こういう思考でこの選択をしました」って書いてくれたならもしかしたら納得しちゃうかも

 

なんだろう?

 

不倫って素敵!とか思うわけじゃない

 

その人の考え方に共感出来れば、その人を認めると思う

 

不倫をしている事実を責任転嫁もなく包み隠さず話してくれて、その思考が理解できるなら、一人の人間として認められるって感じ

 

好きになった事実とか、止まらない気持ちとかがストップが掛けれない感じは、聞けば理解出来るかもしれない

 

なんだかうまく表現出来ないけど…

 

逆に、その思考に矛盾があったり嘘があったり、責任転嫁があると、人間として信用出来ないから、その人を認めることが出来ない

 

「夫が先に浮気をしたから不倫したんだ!」とか、「夫が優しくなかったからだ!」なんて言って夫のせいにしても、結局自分が遊びたかっただけなんしゃないの??って思ってしまったら、その言葉を発する人を認めたくは無い

 

感情的すぎてばっかじゃないの!って思う

 

これって、良い事か悪い事とかって基準ではなく信頼出来るか出来ないかが基準なのかもしれない

 

同じ事をしていて、ほぼ同じ思考で動いていても、寂しい自分を何とかしたくて藻掻いた挙げ句に不倫に至ったと本人が理解しているのと、ただただ他人に依存しているのでは私の受ける印象は全く違うんです

 

きっと悪い事をする人が嫌なんじゃなくて、嘘や誤魔化しで他人に依存したり責任転嫁しちゃう人が嫌なんだと

 

人間は悪い事をしちゃうし、失敗もする

 

でも、私みたいな人達は実は悪い事も失敗もあまり責めていないのだ

 

感情的に動いて悪い事や失敗から何も得れないで同じ事を何度も繰り返す事や責任転嫁をし続ける事が嫌なのかな

 

ちなみに、自己愛性人格障害者達は他人の悪い事や失敗を責める

 

責任転嫁は当然

 

自分の事も棚に上げる

 

 

社会的に良い事か良くない事かだけが基準ってそんな感じなのかもしれない

 

 

今は自己愛性人格障害者が多いからなかなか失敗しても認める人は少ないけれど、本当は他人の悪事には結構無関心だったり、正解じゃなくても出来なくても、その過程に理解が得られたりしないと、寄ってたかって悪い事をした人を責めるギスギスした世の中になってしまう

 

正しくなくても人として認められる事は大切

 

これから子供達をそうやって育てないと、途中で思考を変えるのって難しい

 

今から転換したって、子供が育って親になる頃の40年後にしか全体的な考え方は変わらない

 

今の失敗を叩く世の中は、40年前のバブル期に育った考え方なのかな?

 

そろそろ正しくなくても認める力を養ってみない??