心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

品が無く見える事の本質はなんだろう?

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ずっと、自分が「品が無い」と感じる理由を知りたかった

 

ブログを書き始めてからも、ずっとずっと何かの度に調べていた

何か紐解く鍵がないのかなって感じだった

 

この言葉の本性が見えなくて、自分が何に対して「品が無い」と感じているのか?それが分からなかった

   

今回、私の中の「品が無い」の正体がちょっぴり見えた

 

世の中大抵の物はお金で解決出来る

 

時間だってお金で買える

人の気持ちだってお金でなびく

生死だってお金で買える時もある

 

でも、逆にお金で買えるけど買わなくて良いものも沢山ある

 

日本は水道のお水が飲めるのに、お水買う必要ってある?

一人暮らしなのに大きなお家って必要?

ブランド物だと見せびらかす為に服やバッグを買うの?

 

なんて事かな

 

要するに、お金を掛ける必要の感じられない所にこれみよがしにお金を掛ける事に対して「品が無い」って感じるのだ

 

まあ、水道水は極端かもしれないし、大きな家にも理由があるかもしれないし、ブランド物の服だって見栄じゃなくて趣味ならちょっと話は別かもしれないけれど…

 

これは、買うものばかりではない

 

可愛くないお金持ちの子に「可愛い!」って言ったりする事や高価な物でその価値が分からない物に対してとりあえず「素敵!」って言ってしまう事なんかもそう

 

必要以上のお金を使う事と、自分の中の価値を金額によって変えてしまう事は、多分本質的に変わらない事だと思うのです

 

忙しくも無いのに「時は金成」と言ってせかせかしてみたり、子供の興味をご褒美で釣ったりする人もそうかも

 

お金じゃ無くて心を通わせて前に進めるはずなのに、自分の力の無さをお金でフォローしたりする

 

そこで、子供と関わりながら自分の力の無さと向き合えば、きっと親子で成長するだろうに…なんて思う

 

本当に時間のない時に時間をかけたらいいんじゃない?なーんて思ってはいない

 

本当に時間がない時は、お金を払って他人に手伝ってもらった方がいいだろう

 

多分、自分軸をもって、必要な場所とそうでは無い場所の区別をしっかりしている人を私は「品がある」と認識しているのだ

 

だから、裕福でも身の丈に合わない生活をする人は「品が無い」と感じるし、それほど裕福ではなくても「品がある」と思う人は沢山いると感じるのだ

 

「この行動は品がある」とか、「この行動は品が無い」と書いてあるものがしっくり来なかった理由は、その人によって基準が違うのが原因かなと思う

 

箸の持ち方がどうとか、ブランド物のバッグを持つのがどうとかそんな事ではなく、お金に必要以上に頼ったり、お金の価値を必要以上に見出したり、お金を崇拝してしまう事に「品格」を感じているのかも

 

「お金持ってるからいいでしょ!」なんて言葉は、品が無いものね

 

私の中では、長年の疑問が解決してかなりスッキリです

 

思いは人それぞれなので、違う見方をする人もいるとは思いますが、自己愛性人格障害者達が下品に見える理由も私の中ではこれで解決してしまおうかな