心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

自分スタンダード

f:id:pilatesno-1:20210302002820j:plain 人は、自分のしていることやしてもらったことがスタンダードだと思っている

それ以外の常識なんて実はどこにも存在しない

だから、自分のしてもらったことを誰かにするのは当然の事

親が一緒に遊んでくれた子は、親になったら子供と一緒に遊ぶし、上の子が下の子と遊べば下の子はその下の子と遊ぶ

家の中では兄弟で役割が決まっていたとしても、一歩外に出て周りが自分より小さい子ばかりならば年上の役割を買って出る

いつも上の子に面倒を見てもらっている子は、年下の意見を聞きながら一緒に遊ぶ事にストレスを感じて生きることは無い

でももし、ある年齢になって世の中の素敵な出来事と自分のスタンダードがかけ離れたものだと知ったらどうだろう?

世の中のいい人のイメージに合わせるためには、自分スタンダードとはかけ離れた行動を取らないといけない

自分スタンダードははっきり言って邪魔だし、良いことをするには物凄くストレスがかかる

面倒見の良い自分を演出するためには、他人の面倒なんて見たくもないと思っている自分を否定した上で他人の持っている面倒見の良さを真似なければならない

普段他人の面倒なんて見ないし、見てもらったことも数少なければ、どこまで面倒を見れば良いのかも分からない

はじめのうち物凄く優しく優しすぎて、どこまでも面倒見が良くて違和感を感じるほどの自己愛性人格障害者はこうして育つ

その優しさが長続きしないのは当然だし、そもそもその優しさもその面倒見の良さもその人が持っているものではない

自分の生活を全て否定して全てにイライラして全てを真似して生きていかなければいけない自己愛性人格障害者は大変なんだ

なんて、我が子が公共の遊び場で遊んでいる姿を見て思う

一番下だからって小さい子に興味が無い訳ではない

わざわざ興味を持たなくたって、周りと遊ぶ事は当然なんだ

公園にたまに行くと、知らないお母さんから「いつも面倒を見てもらってありがとうございます」と言われる

末っ子で家では全てをやってもらっている役目だが、外に出たら逆も出来る凄い奴なんだ

人間は誰でも自分スタンダード

自分を否定せず楽に生きていくには、親を目指して育っていくのが楽なのかもしれない

親を否定して生きていくのはたぶん自分自身を否定して生きていくことで、だからこそ本当に厳しい

どんなにひどい親でも肯定出来る事が理想だけど、それもなかなか難しい場合もあるかもしれない

せめて自分だけは自分スタンダードを否定せず、楽に生きていきたい

そして、そんな親を見て子供達が育って行ってくれれば良いのかなと思う

面倒を見ていた子の靴の隣に我が子の靴がきれいに並んでいる光景を見て、我が子の素敵な一面を見れた一時でした