私は、親に「助けて」の一言を言ってこなかった
強がり?かもしれない
母親は、小さい頃から当たり前に出来る長子を褒めることをして来なかった
そして、ほんの少し出来ない次子を溺愛した
今にして思えば、スキが無い子だったかも
一人目は親は試行錯誤だ
理想を追い求め、分からない子育てに奮闘する
分からない家族関係に悩む
だから、良い子は当然になるのかもしれない
私は出来る事を褒めてもらえずどこまでも努力した
でも、いつも親の答えは変わらなかった
「なぜ褒めてもらえないのか?」と言う事は多かったが、明らかな差別にいつしかそれも諦めた
頑なに親を拒み「諦め」という形で距離を置いた
親とはなるべく距離を置き、頼らず自立して生きてみようと思った
でもね、自立してみたら自立している人ほど人に感謝しながら支え合っていることに気が付いた
自立している人達は、自立している人を尊敬して感謝して助け合う
「助けて!」って言葉が本当に重い言葉だったあの頃はそれを拒否して生きてきたけれど、それも今は簡単に言える
人を選んで正しく使えば「助けて!」は一方的ではなくなるのかもしれない
自己愛性人格障害者のやる事は目に見える
目に見えないと意味が無いからだ
でも、そうでない人達は目に見えない奥深いところで手を繋ぎ、目に見えない大きな力を動かしながらずんずんと突き進む
年齢や立場を難なく越えて、瞬間で手を繋ぐのだ
そりゃー自己愛性人格障害者達は、太刀打ち出来ない
結局は「助けて!」を一方的に使うか?、使わないか?、皆で使うか?の選択しか無い
皆で使うか?という選択肢に馴れ合いは無く自立したカッコいい大人たちがカッコ良く生きるために共通の意思を持って必要な時だけそっと手を繋ぐために「助けて!」を使うんだなって思う
今私はそんなカッコいい大人たちに仲間入りしている
だからどんなに凄い人でも垣根が無い
物怖じしない
周りの人達がどんどんとここに手を繋げるといいなと思う
なんて自信家な発言
まだ見た目は随分小さいけどね
ちなみに、今は簡単に母親に「助けて!」が言える
そんなに使わないけど…
でも、彼女はまだ言えていない
きっと彼女も苦しんだのかも
そろそろその山を超えそうな気がするな〜
大きな事が無いと、なかなか越えられないこの山を皆で越える為に何かが起こる
皆の強がりが優しさに変われば奇跡は起こるかもしれないね