感受性が高い!
なんだかいい言葉だけど、この「感受性」は実はかなり扱い辛い
要するに、人の気持ちが分かったり、芸術性に富んでいたり、色々な物や事柄から色々な事を感じ取ったりする物だ
誰もが感じ取れる範囲の事柄は実は物凄い限られている
それ以外の事柄は無限に、それこそ宇宙の様に果てしなく広がっていて、遠くの星をも鮮明に見える人もいれば、自分の真下の確認も出来ない人もいる
正直、そんな遠くの星が見える事など意味がないかもしれない
人間の記憶に留めていられる事柄は限られているため、その遠くの星の記憶のために、削ぎ落とされた記憶があるかもしれない
感受性と同じ様に使われる共感性も、いい事ばかり共感するわけではなく、相手の悪い所にも共感してしまう
心根の悪い人といると、具合が悪くなってしまったり、相手の思うところが分かるが故に、相手の不機嫌の理由を必要以上に排除してあげたりしてしまう
では、その感受性の良さをどう活かすか?
人や物から受け取る事柄が多いという事は、インプットする事柄が多いという事になる
バンバン入ってくるのに整理出来ない情報なんて、正直使い物にならない
アウトプットは不可能だ
山積みの紙の中から、必要な情報を探すのは難しい
だから、分からなかった出来事は、捨ててしまうか、整理してなるべくシンプルに片付ける事が必要だ
私の場合は有耶無耶な出来事はブログに書いて片付ける
その上で、自分の感情か他人の感情かの区別をとことんする事がカギだと思っている
Aさんの悪口を言っているBさんがいるとする
Bさんの言いたい事が手に取るように分かるとしても、そこで自分は一緒になって悪口を言わないでやり過ごしたとする
そしたら、Bさんの気持ちに共感は出来たけど、悪口を言ってはいないから罪悪感は持たない
後でBさんと悪口を言った共犯にもならない
「Aさんの悪口言ってたでしょ!」なんて言われても無視する
なんて事も小さな一つ
誰かがイライラしてる時にイライラの原因がわかったとしても、そのイライラの原因を取り除いてくれとは言われていないのだったら無視する
イライラは自分の感情では無いし、そのイライラを引き受けて自分の問題として解決する必要なんて無いと割り切る
そして、他人のイライラの原因を取り除かず無視した自分に罪悪感を持たず褒める!
感受性が豊かとか高いのは、良く気が利いたり、人の思いに寄り添えたり、繊細な物の見方が出来たり、感情を豊かに表現出来たりと素敵な事が沢山ある
素敵な事が溢れ出てきてしまうなら、それは存分に使っていけばいいし、それで困ってしまう出来事には感受性という道具を使わなければいい
ただ、感受性を使わない選択をするために、事柄に対する判断が欠かせない
感じる事が多ければ多いほどその判断の精度を上げていかないといけないのかもしれない
芸術家の様に人の心への感受性をある程度シャットアウトする手もあるとは思うけど、それだとコミュニケーションが上手く取れなくなってしまう
「適度」なんて難しいけど、自分の中でのバランスを取る作業を人生掛けてやっていくのかもななんて思う