心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

「平等」「公平」の名の元の窮屈

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「平等」「公平」何だか凄い聞こえのいい言葉だけど…

 

厳格に進め過ぎると物凄い窮屈な事になる

 

30人のグループがあるとする

「全ての人に同じ時間で同じ場所で同じ事をやってもらいたい!」

 

まあ、これが平等??まあそうね

 

ちょっとロボットみたいじゃない?

 

30人のお仕事や経歴や年齢や病気はバラバラだとする

 

すると、同じ時間では参加できる人が5人しかいないから「同じ時間は難しいのである程度都合で時間を選べる様にしましょう」と一つ緩いルールにレベルを落とします

 

すると、30人中20人が参加できる様になりましたと少し出来る人が増える

 

あと10人をどうするか…

 

そしたら、場所をどこでも何とかなる様にしましょう!ともう一つルールのレベルを下げます

 

すると、30人中28人が参加でできる様になりました

 

それでも全ての人に参加してもらいたいなら、あとの2人は2人が参加できる様に内容を変えるとかもう少し枠を広げてあげる

 

そしたら、30人参加できるようになりました

 

もしここで30人参加できるなら、本当ならここが平等だと思うんだけど、今の日本の社会は、どちらかといえば、初めのルールを当り前に主張する

 

これは、自己愛性人格障害者が最も好むルールの作り方で、「平等」「公平」を振りかざし人それぞれの違いを排除する物だ

 

何が違うのか、分かりそうで分かりにくい

 

一見、物凄い良さそうな「平等」「公平」を掲げるから、気がつくまでに時間がかかる

 

はじめから、気をつけて危ないと思って見ておかないと、あっという間に構築されてしまう

 

そうして出来上がってしまった教育や自己愛性人格障害者がトップの集団や自己愛性人格障害者に乗っ取られた集団をどうすればいいのかは私には分からない

 

でも、そろそろ限界

 

徐々にではなく、ガツンと潰す方法を見つけないと、自己愛性人格障害者も自己愛性人格障害的考え方も潰れない

 

今そういう芽があるなら注意深く見守り、自己愛性人格障害者の思い通りにはならない様に策を講じ、今自己愛性人格障害者の集団にいるなら何とか逃げる事がやっぱり大切になるのかなと思う