親子で遊ぶと社会に出て出来る子が育つ訳①
前回、海で子供を他人に預けてしまう親を書いたのだが、それと同じなのかな?
私にはよく理解出来なくて…ちょっと感覚的に受け入れが難しかった出来事から書いてみる
夏に親戚家族が我が家の近くに遊びに来た
そこで、スケート場に皆で遊びに行くことに…
子供が2人、スケートは初めての未就学児と低学年だった
うちも未就学児1人を含め3人の子供とのスケート
となると、未就学児は子供達にはまかせられないので、私のがスケートをする事にした
主人は撮影係
親戚はというと、奥様そもそもリンクに入る服装ではない
上着も着ず半袖に素足
ご主人もそれ程厚着ではない
そして、撮影係だと言う
何度か「滑らない?」と誘ったが、無理だった
「スケート場は寒いと思うから上着を持ってきてね」と来る前に言ったけれど、それは子供達のみだと思っていたと…
そして、親達は私達家族に子供達を預けて途中まで見て外に出てしまった
上着を貸して、せめてリンクに戻って欲しかったが無理そうだった
スケートもなかなか危ない
保護者の私も自分の子供以外を見る余裕なんてない
というより、スケートって上手な人でも巻き込まれて転ぶ様なもの
未就学児は靴を履いたままトイレにも行けるか分からないのに、それを放置して親は外に出て行ってしまう
まあ、海で子供を預けてしまう親がと同じかもしれない
他人では無かった事もあり、何も言えなかった
子供達はべったりだった
家族総出で子守をした感じ
それでも、親は子供を見てもらった事をあまり大変な事と思っていない
それは、普段おじいちゃんおばあちゃんに子供を預ける事を日常的にしているからかもしれない
近くに住んでいて、ご飯も週に何回も実家にお世話になる
それだと子供を預ける事が気にならなくなるのだろうか?
ましてや他人の子はいつもの対応が分からない
どこまで出来るかも分からない
自分達が子供に声も掛けない事が気にならないのだろうか?
子供達はユニバーサルスタジオより楽しかったと言ったらしいけど…
それって本当にスケートが楽しかったのだろうか?
いつも外に出るのがあまり好きではないおじいちゃんおばあちゃんと居て、遊んでくれる大人がいない
大人や年上と一緒に遊んで声をかけたり共感したり見てもらったりした事が無かったのではないかと思う
だから、そういう遊び方をした事が楽しかったのでは無いかと思う
出来た事を「出来たよ」と言っても自分だけやっている事と親とやっている事では、実は認められる感覚は全く違う
これは親子でトレーニングをしていて物凄く感じる事だ
共感性の厚みが違う
だから、親子で遊ぶ家庭はコミュニケーション能力が高くなるのではないかと思う
大人の技術の習得方法も間近で見るので、頭を使った技術取得の方法に早めに触れる事が出来る
親子で同じ競技をやったりすると凄い選手になるのは当然なのかもしれない
社会に出たときに、お金持ちになれるとか成功できるとかかっこいい大人になるとか色々な事があるけれど、その中で共通している事がある
"コミュニケーション能力"
"考えて動ける"
この2つは、どんな成功においても外せない
べったりの方法によっては自己愛性人格障害者が出来上がる事もあるけれど、「親が子供と遊ぶ事」が本当に大切だと気づかされた出来事かもしれない
事例無しでまた書こう!