イライラは移るからどうする?
常にイライラしている人がいる
離れられない時はどうしよう?と考えた
今までなんとかイライラさせない様に、試行錯誤してみたが、どちらかというと余計にイライラするらしい
細かい所をどんどんとついてくるようになってきた!
なので、一気に諦めた
もう、対応しないことに決めた
ずっとおこりんぼう
それも放っておく事に決めた
また怒るんじゃないか?なんて怖がらずに、言いたいことは全て言うことに決めた
そしたら言ったことでスッキリした
機嫌が悪いのは、その人の問題
移りそうだけど、移らない様に楽しくニコニコしてることに決めた
変なルールを決められても「変なの!」って言うことにした
文句を言われても反省したフリをして放っておく
私が落ち込むことなんて無いんだ!
毎度、これが足りない私
まだまだ、平常心を保つことに力がいるな~
ニコッと笑って無駄に消耗しない!
怒っている人はいったい何にそんなにイライラしているのだろう?
怒らないといけないほど何かに怯えているなんてショボいけど、ただ可哀想な人なのかも
病気になっちゃうかもね
スマホの中に生きているの?
スマホを見ている時間は何時間?って回答に12時間とかって回答が返ってくる時代
誰にも会わなくても、寝て起きてご飯を食べてスマホを見たら1日は終わる
出掛けるのもSNSにアップする写真のため
方やその時間をリアルに動いて人とコミュニケーションを取りながら生活をしている人がいる
5年後、その二人が同じ訳がない
そんな人達が共存する世の中なんだなあと、改めて思う
同じ20才でも、天地の差だろう事は想像がつく
スマホの中に生きている人達が当たり前に存在する時代だからこそ、そうじゃない人達の価値は上がっていくかもしれない
スマホがいじれない人は居ないから、スマホがいじれて、かつ、経験を沢山した人の価値はどんどん上がっていくはず
そんな大人になれている??
嘘か本当か分からない情報に踊らされて時間を無駄に使っていない?
自分の使った時間は全てが自分の素材
誰かをどんなに真似しても、素材が違ければ同じにはならない
羨ましくても、完全に同じにはなれないし、どんなに真似してもその人より劣るに決まってる
人間形成の大切な時期である子供時代にスマホに12時間?そんな時間の使い方をして大丈夫かな??
他人の家庭はどうでもいいけれど、我が家の中は少し考えたい
そもそもテレビさえ1日1時間見れてるかどうかの我が家
ゲームも携帯も入ってきたら自制するのは至難の技かもしれないな
不登校から脱出してみて思うこと
我が子は私立中学一年生の10月頃から完全に不登校になりました
原因は、妬みとLINEによるいじめ
地方なので、あっという間に知らない人にまで噂は回り、人間不信になって、家から出られなくなりました
しかも、逃げ場にしていた大好きな趣味でも、先生や親たちによる壮絶ないじめ
まさかの出来事に親の私も事実確認がなかなか出来ず、対応があまり上手くは出来なかったのかもしれません
とにかく我が子と沢山の事を話しました
何も心に届かない時がほとんどだったけれど、とにかく向き合った日々でした
お陰で子供との信頼関係は強固になったのかなと思います
色々な事に心を壊して対応しようとしていた我が子を何とか立ち直らせようと、子供の事やいじめる人の事を調べていく内に、気がついたらこんな風になっていました
今は周囲の助けもあり、我が子は成りたい職業に向かうために高校に通って大学を目指し勉強をしています
もう、完全に不登校からは脱出した感じですし、戻ることももはや想像すら出来ません
壮絶な日々だったけれど、出会った人や出来事に感謝です
あの苦しい日々がなかったら、きっと今の我が子はありません
どん底まで落ちてそこから這い上がる経験をしたことで、これから生きていく上で大切な人や思いを得ることが出来ました
それは、我が子の中にあるもので一生無くなってしまうことは無い財産だと思います
大変だった分、掛け替えのないものを手に入れたと思います
当たり前の物事が一気にキラキラと輝く素晴らしい物に見えるのですから、そりゃー見ている世界もこれからの人生も変わります
同じ物が全く違う物に見えるなんて、想像出来ませんでした
世の中には不登校からそのままニートになって自立出来ない人もいると思います
だから、不登校になると親も子供も最悪を想像して焦ります
とにかくそこから脱出しなければ!と思います
でも、きっと物事はそんなに早くは解決出来ません
そして、もし原因が学校にあるのなら原因のある学校に戻る事が出来ないのは当然です
これが原因だろうと本人も親も思っていたとしても、実は全然違う所で気持ちを消耗して、学校で人間関係を潤滑に出来るほどの気力が出ないこともあります
原因が周りも本人にもなかなか分からないのです
我が子も最終的には転校しようが良いクラスだろうが学校に足が向くことはありませんでした
色々な場所で消耗した心は、最終的には学校を思うことも出来なくなっていました
その時点では、そんな自分に目を向けることも出来ず「行ける!」「出来る」と信じて「行かない!」「やらないだけ」と思い込んでいました
「行かない」ではなく「行けない」と認めることも「やらないだけ」ではなく「出来ない」と認めることも正直一人ではとても無理だと思います
支えてくれる人が居て、支えてくれる人がいることを信じて「ちっちゃい自分でも構わない」と思えるのだと思います
支えてくれるのは親だったり、友達だったり、もしかしたらペットだったりもするかもしれません 今なら、ネットで遠くの人と繋がれるかもしれません
居なくなりたい位しんどい時は、きっと誰にでもあります
そして、本当はそこから自分一人では脱出出来ないのです
一人で頑張ろうと思っていませんか?
誰も助けてくれないと、助けてくれる誰かを待っていませんか?
助けを求めてもがいても、実は誰にも気がつかれない位かくれてもがいているのかもしれません
仮面を被っている偽りの心に手を差しのべてくれる人なんていません
自分をきちんと把握出来ない人は、自分に嘘をついている人です そんな人を、信じてくれる人なんていないのは当然なんです
それなのに相手をせめてばかりいませんか?
相手を責めたりイライラするのは、自分の理想と現実のギャップがあるからで、相手が悪いのでは無いのです
他人が自分理想通り動かないのなんて当然です
「居なくなりたい」のは誰のためですか?
厳しいけれど、理想に届かない自分をただ認められないだけかもしれません
学校に行けない自分も、友達が一人もいない自分も、何も言い返せない弱い自分も、勉強が出来ない自分も、暴力的な親にでも愛してもらいたいと思ってしまう自分も、全て自分なんです
まずは、自分で認めてあげてから誰かに助けてもらったほうがいいと思うんです
ただし、なかなかそこまで自分で持ってくるのは大変です
助ける方にも覚悟がいります
その方法は色々あるとは思うんですが、もし助けるなら、まずは自分を把握して前を向いて進んでいかないと、「子供はそれで良いんだ!」ってはならないと思うんです
迷っている大人に、頼る子供は居ません
子供達は特に親を思っているからです
親に負担をかけたい子供は、いないのです
だから、負担を掛けても関係が壊れない信頼関係が築けないと、負担をかけることは無いのです
今の現状を脱出するために、なんとか助けたい大人は、子供を置いてまず自分が先に脱出する事だと思います
そして、あいにく自分の親はそんな親ではないなと思う人は、動いてみて身近な自分の理想の大人を探すべきだと思います
親じゃなくても助けてくれる人は沢山居ます
家族や学校や職場が全てでは無いです
もっと広い世界を自分の目で見て、大きな自然の力を肌で感じ、その中の蟻みたいな存在の自分が居ても居なくても、世の中が何も変わらないのだと感じた方がいいと思います
学校に行けなくても、毎日つまらない日々でも、お金持ちでも貧乏でも、どうせ生きるのなら自分の為にしか生きられないのだと分かればいいのかもしれません
他人からいじめられても、不登校でも引きこもりでも、その経験を全て生かして生きていけたなら、その嫌な出来事もただの経験です
その出来事をずっと引きずって動かないとしても、それは自分でした選択でいじめた人のせいにしても、いじめた人はあなたの人生の前を歩いてあなたを引っ張ってくれることは無いのです
不登校からの脱出は容易ではないけれど、沢山の支えを得て自分の為に生きるための自分と向き合う時間と思って、時間を掛ければいいと今は思います
誰でも脱出出来るし、逆に誰でも動けなくなる時はあると思います
脱出の方法も得るものも全て違いますが、ネガティブな事ばかりでも無いです
お先真っ暗でも、ずっと続く事は無いし、もし何十年もそれが続いたなら、それは自分の選択の結果です
今の自分は今までの自分の選択でしか作られていないのです
なんて思います
そんな私もまだまだ成長途中
周りにも自分にも結構イライラしています…
日本の学校も苦手です
ただ、どう変えたらどうなるのか?なんて分からないです
私の出来ることをそっとこれからも続けようと思っています
時間管理が上手いのか下手なのか?
予定をぎっしり入れると落ち着く人っている
もう、何かハプニングが起こったらどれもこれも出来なくなりそうなそんな予定の入れ方に驚く
もちろん、時間管理が上手くないに決まってると思っていたけれど、実は時間管理が上手くない訳ではないのかも
そういう人は「何分から何を始める」とか、とにかく細かい
上手くいかないとイライラする
そんなに細かい予定になんて誰もついていけるはずも無いから、上手くいかないのは当然だし、周囲も合わせる事は至難の技だけど、当然周囲にもその細かさを要求する
凄い面倒な人達だけど、実は何分まで計画を立てられるって事は、その予定がそこまでに終わるであろう事を予め把握しているってことなのかもしれない
物凄い完璧主義なだけで…時間管理は凄い人なのかも??
ホントに??
それにしても、あのイライラをぶつけてくるのは厄介だ
自分で勝手に立てた計画に周りが付き合ってくれている意識も無い
感謝も無いし、当然だと思っている
出来ない相手が悪いのだと信じて疑わない
とても、時間の管理が上手いとは言い難い
まだ、時間の把握が下手な曖昧な予定を立てる人の方が数倍ましかもしれない
そう考えると、「時間を把握しながら適度な余裕を持ち、物事を計画的にこなすこと」がとても高度な事だと気がついた
子供達にそれを求めるのは難しいかもしれない
夏休みの宿題の締切も間近
物凄い完璧主義でとっくに宿題を終わらせている長子と、計画性の無さの上のイライラ、ギリギリになっても嫌なものに手をつけずに何とかやり過ごそうと思っている次子を見て思う
計画性が無いならまだましなのか??
時間管理が上手いのか?下手なのか?
どちらにしろ、家族は人の境界が曖昧だから、この時期は厳しい!!
「なぜできないのか?」
私自身もどちらかと言えば長子に近い子供時代を過ごしたから、うちの次子の気持ちは分からない
他人だからね、傍観する私にも体力と気力が必要かも
どちらにしろ、当たられる方はただただ迷惑だけど、我が子達は当たれる家族がいることは幸せ
次子のギリギリなのに宿題にも手をつけず、それが気になって他の物にも手をつけない生活が、あと何日か続くのかもしれないな
「お金がない」って言う人が苦手
「お金が無い」とか「お金が掛かる」って言う人が苦手だ
凄く品が無いって思う
何でなんだろう?
お金の話をする人が嫌いな訳ではない
商売の話をするのも嫌いでは無い
どんな仕組みでお金が回るのかを考えるのも話すのも嫌いじゃない
でも「お金が無い」とか「お金が掛かる」って言う人はちょっと離れたくなる
「今掛かる時期だよね~」とかならいいのに
何でだ??
「お金が掛かる」って大抵計画していれば分かることだったりする
お金が無くなってしまうのは、計画性の無さを周りにひけらかしてるだけなのかもしれない
常に言うということは、常に計画性がなく日々を送っていると言うことなのかもしれない
お金がどこにいくら使われているかを分からない人と近くいるのは気分が悪い
おまけにそのいい加減な価値観で、人に負担を求めてきたりしたら最悪だ
お金が掛かるのも、無いのも、10年後も、ある程度は分かっているのだから、それに対応出来るように生きていかないと
もちろん、突然のハプニングは沢山あるけれど、それでもそこを乗り越えていかなきゃ!って前向きさが感じられないのかも
厳しいけど…
厳しすぎるかな??
「身の丈に合わない生活をしている人」は苦手
自分を客観的に評価出来ないのと、自分に自信が無いから
「お金が無い」って人も実は中身は一緒だったんだ
気がつかなかったな
「時間がない」って断り方の不快感
私の近くの自己愛性人格障害者達は常にせかせかしている
「忙しいのがカッコいい!」と思っているので、忙しさをアピール!
電話を掛けたり、人と話をしたり一人でいることは少ない
大抵は悪口に花を咲かせながら、人を見下している
噂話と自慢話と悪口を子供を放っといて延々としている人が多い
暇そうだ
でも、何か頼み事をすると「時間がない」って言葉が返ってくる
格下だと思われている人間が協力を仰いで貰うことはまあまあ難しい
だから、協力をお願いする時は最小限
少しでもお手伝いしてくれそうな時は自己愛性人格障害者が渋々なのを無視して「ありがとうございます!助かります!」と言ってわがままを受け入れてやって貰う
他の人が協力する中、自分だけがやらないのは目立つからやる形だけの協力だと分かってはいるけれど、その不快感も周囲はなるべく無視する
周囲は常にこの不快感を持ちながら、物事を一緒にしているのだ
この不快感は心に残る
だから、自己愛性人格障害者が周囲に「協力して欲しい」と頼む時、周囲の人達は自己愛性人格障害者に不快感を持ちながら手伝う
自己愛性人格障害者に扱いをよくしてもらおうと協力的な態度で望む人も沢山いる
でも、それは損得を考えた末の選択
「助けたい!」って思いとは違う
自己愛性人格障害者は、その損得勘定を利用する
「私に協力すると得よ!」「私に協力すると後で便宜を図るわよ!」「私に時間を割くのは当然でしょ!」「私に協力しないと後が怖いよ!」と…
だから、自己愛性人格障害者が力の有るときは、損得を考えて協力的な人は多いが、自己愛性人格障害者が落ちぶれると周りに誰も居なくなる
他人の予定を入れるときは優先順位を決めながら、自分の予定を調整する
やりたくなければ断るし、やらなければいけなければ何とか予定をやりくりする
逆にやってあげたいと思えば時間的に難しい場合でも「少しの時間でも良ければ手伝うよ!」と言うだろう
しかも、お手伝いしたいと思いながら、楽しく出来たお手伝いで感謝されたりしたら人の心は満たされる
だから、自己愛性人格障害者の周囲と協力したいと思う人の周囲とでは、同じお手伝いだとしても、その中身や気持ちが全く違うのだ
「時間がない!」の一言には「あなたに協力する時間は作りたくない」という思いがあると誰もが知っている
あのモヤモヤした不快感は、後々威力を発揮する物なのだ
人を見下していると「時間がない!」って言いがちかも
あの時はそのモヤモヤの意味が分からなかったけど、私も家族に言われてぶっちぎれた時があるな…
「協力してあげたいと思われる人」になるのはなかなか難しそうだけど、この断り方の理由が分かれば、せめて自己愛性人格障害者的な不快感は取り除けそうな気がするかな
犯人探しをする人達は…
物が壊れたときや無くなったとき、何か事件が起きたとき、ひたすら犯人探しをする人っている
壊れた物が直っても、無くなったものが見つかっても、自分には全く関係ない事件でも、誰がやったのかを調べる
暇なんだろうが、ただ暇だから犯人探しをしている訳ではない
そういう人達は犯人を見つけて、その人を正さないといけないと本気で思っている
正さないと?謝らせないと?懲らしめないと?世の中にとって迷惑だと周りにも知らしめないと?
そもそも、その犯人は犯人探しをしている人に謝る必要なんて無い
多分、迷惑も掛かっていない
大抵、被害者ではない
ただ、自分は正義だ!と言いたいだけ
そもそも、なぜ「自分が正義だ!」と言いたいのかというと、そう言わないと自分はキチンとしていると思えないから
何も出来ない価値の無い人間ではなく、悪を正せる誰よりも格が上の人間だと思いたい
ダメな人間を正して上げないと、世の中は良くならないと思っている
どれだけ自分がちゃんとした人間なのだろう?と思うかもしれないが、自分がちゃんとしているかどうかなんて、どうでもいい
おもいっきり自分の事は棚に上げるので、自分の行動を見返すことなんてない
ニートだろうが引きこもりだろうがいい
そんな人が何人か集まると、あっという間にいじめみたいに、誰かを探して袋叩きにしてしまう
それでもそれは「正義だから正しい」と本気で思ってやっている
もし仮にその人が追い詰められて自殺したとしても「そんな人に生きる価値なんて無い」と自分達がやった犯人探しは正しいと言い切ってしまう
小さい所だとお友達だったりクラスの子だったり、大きくなればSNSとかで不特定多数の人が参加するこの犯人探し
偉そうに正義感を振りかざすけど、ただの「いじめ」
皆いじめの加害者
正義になろうと時間を割いて、悪になる行為
でも、やっている本人達に悪意は無い
自分に自信の無い人達が、言い訳を探して他人を叩いて自分を保つ
今は情報社会
知ろうと思えば大抵の事は知れてしまう
そんな情報社会だからこそ、知らないで置くことの方が大切かも
情報をスルー出来る力って必要かも
情報量が多い世の中だからこそ、情報の量を絞る事や、いらない情報を過度に詮索しない事や、自分の判断でいらない情報を切り捨てられる力が必要なのかもしれない
警察でも無いのに犯人探しをする人達は、いらない情報をキチンと判断出来ない人達なのかな
判断出来る自信が無い人達なのかもしれない
そう思うと、正義ってつまらないしどうでもいいことなのかも
いつまでこういう人達が増えるのかな~