心と身体とピラティスと運動

倉敷・早島でピラティス教室と親子コーディネーショントレーニングしているインストラクターの頭の中を整理するブログ

夫の育児参加で本当は私が一番して欲しい事ってなんだろう?

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夫の育児参加はほぼ皆無だと私は思っている

 

もちろん夫本人は、これでもかと思うくらいやっていると思っているけれど、やっているのは育児ではない

 

家の中でやることは、育児と家事がある

 

家事は料理を作ったり、掃除や洗濯をしたりと一般的には思うけれど、それだけでは無い

 

子供達と関わっていても、送り迎えなどは家事だ

 

で、一体本当は何をしてもらいたいのか?と考えた

 

我が家は3人子供がいる

 

私一人では、一人一人の話を聞く時間もままならない

寄り添う時間も限られている

 

そう、私や子供達と無駄にただただ一緒にいて肯定することをして欲しいのかもしれない

 

子供達の話を一手に引き受けるのは本当に時間がいる作業だ

 

兄弟の事、学校の事、友達の事、習い事の事、主人の事、とにかく愚痴の日もあれば、ただただ楽しかった事を話す日もある

 

全てを聞く事は出来ないし、とにかく時間が無いのだけれど、そこをやってくれたら多分相当助かる

 

だが、夫はその時間が無駄だと感じている

 

愚痴を言えば「お前が言える立場か!」と否定し、楽しかった事を話せば内容が下らないから上の空

 

本を読んでもらいたくても音読

 

お風呂は一人で入りたいから「早く入れ!」と子供達をせかす

 

自分がテレビを見たいから早く寝かす

 

そうじゃ無くて…

 

お風呂に入りながら子供達の下らない喧嘩にも付き合い、本を読んであげる前に選ぶ本が変わった事に成長を感じたり、寝かしながら今日有ったことを聞いたり、そんな家族に寄り添う時間を作って欲しいのかもしれない

 

私や子供達の愚痴も笑顔でただ何も言わず聞いて欲しいのかもしれない

 

部屋をピカピカに掃除することより、して欲しい事がこれだったとついさっき気がついた

 

家族と寄り添う時間には成果が無い

 

だから、男の人は無駄だと思うかもしれない

 

でも、そこをやってくれないと育児参加では無いと思っているし、子供達と夫との距離感は離れるばかり

 

話を聞かずに人のためと思ってやることは、自分の中にあることばかりで、子供達の思っていることとはかけ離れていく

 

ありがた迷惑と思われないコミュニケーションを取る方法を見いださないと、頑張っても報われない夫のイライラは高まるばかり

 

ありがた迷惑な事をされて、勝手にイライラしている夫から、文句を言いながら離れる子供達のイライラを聞く私

 

ただ寄り添う時間が無駄ではない事を知って欲しい

 

そしてそれこそがコミュニケーションだということを気がついてもらえればうれしいなと私ほ個人的に思った

 

色々な事が有った今は変われるチャンス!かも

読み聞かせしないの~??

我が子6歳

 

ちょっと私が忙しい最中に、夫は椅子に座って携帯を見ていたので「パパが一冊位ならご本を読んでくれると思うよ」と私か言った

 

そのまま私か用事をしていると「むむ、子供が本を読んでる声がする」

 

まさか…と思い聞いてみると、夫が半分寝ながら子供が一生懸命音読しているのを聞いている

 

まちがえると、直す

 

えー、あまりに子供が気の毒で、びっくり!!

 

上の子と「上の子でも読んであげるのに、気の毒だ」「えの難しい本じゃ、頭に何も入ってこないよね」と話していた

 

途中「もう一度ママがお布団でよんであげるね」と言って本を持って布団に行きました

 

なかなかの衝撃的行動に、子育てへの夫の参加を考えさせられた

 

まっ、仕方ない

これも親から受け継いだ親子関係

 

 

 

人間は変われると思う

私は、昔自分の事が大嫌いだった

周りの誰もが羨ましくて、キラキラとして見えた

「ああいう人にはなれない」とクラスの人気者を見て決めつけていた

家庭環境と元々の精神的な成長の早さから、周りとはとても馴染める状態では無かった

周囲がケラケラと笑う話題のどこが面白いのかさえ理解が出来なかった

周りが全て子供に見えた

高校生になっても、大人になっても、それはあまり変わらない

でも、高校生の頃から付き合う年齢がかなり広くなり、気がつけば年齢の壁は無くなった

そして、考え方が子供だから認められないなんて事も今は無い

もうちょっと頑張って欲しいかなとか、残念だなとかは思うけど、無理やりその人の近くに居てイライラしながら世話を焼くことも今は無い

あんなに人を羨んでいた自分は今はもう居ない

親を否定して生きてきた自分も今はもう居ない

周りが敵ばかりに見えていた世界も、今は味方ばかりの居心地の良い場所だ

何かあっても信じて頼れる場所がある

幸せなんて感じられなかった日々が、今思い起こせば幸せだったし、これからどんなことがあっても未来はずっと幸せだと思う

学生時代は7歳位は上に見られていた見た目も、30歳を越えた辺りから10歳位は当然のように若く見られる

まさか、この年齢の自分がこんなにも変わっているなんて想像もしていなかった

人は変わろうとすれば変われる

変わる事が怖い事では無い

今の自分を大切にしながら、どんどんと素敵に変化していければいいなと思っている

絶対に変わらない物なんて無い

自分の変化も人の変化も世の中の変化も楽しんで生きていけたらいいな

昔、癌を告白された時の事

20歳の頃、仲良しの40代のお姉さんに飲みに連れていってもらった

 

素敵な人だった

 

彼女はその時「乳癌だった」と私に告白してくれた

「お付き合いしてる人はいるけれど結婚出来ないのだ」と言っていた

 

私はその時、何と返したか覚えてはいない

 

でも、身構えず、その事実だけを受け止めたのは覚えている

 

特に癌が死に繋がるとも思わず、ちょっぴり重い病気に掛かっただけだと思っていた

 

その後もその事実を知る前と変わらず接していた事を覚えている

 

私は…

 

でも、多分私のような受け止め方をする人は少ないかもしれない

 

若くして癌になると、可哀想とか気の毒だと感じ、その後どの様に接するべきか戸惑う人も多い

 

でも、2人に1人が癌になる時代

私の周りにも沢山の癌患者や元癌がいる

 

完治する癌も増えている

 

だから、闇雲に癌に恐怖を感じるのは時代遅れかも

 

その後、彼女は10年以上癌と共存しながら生きて、亡くなった

 

たまに、街で出合うと、浮腫んだり痩せたり太ったりと見た目が大きく変化しながら元気そうだった

 

あー、戦ってるんだな!って思いながら、いつも声をかけていた

 

彼女は命と向き合いながら、長い時間を過ごして来たのだなと、今なら分かる

 

私のあの対応で良かったのだと、今になって思う

 

だから、彼女は20歳の私にその告白をしてくれたし、その後も一緒に過ごしてくれたのかもしれない

 

でも、あの時20歳の私にはまだ何も分からなかった

命が短い事さえ意識しなかった

 

そういう風に対応する事が出来たのは親のお陰かもしれない

 

色々有るけれど、やはり親には感謝したい

 

命は限りある物なのに、人間は案外その事に気がつかない

 

当たり前の事がとても素晴らしいと感じながら生きる10年はもしかしたら、それを知らずに生きる50年よりも価値があるのかもしれない

 

だいぶ時間がたったけど、今になってそんなことを考えてみた

 

良い出会いだったな

周りを否定して生きていくのは大変

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同じ事をしても、同じ状態でも、周りを否定して生きていくのと周りを肯定して生きていくのとは、雲泥の差がある

 

親や家族を否定して、反面教師にしながらそうならないようにと生きていく方法が無いわけではないと思う

 

誰かを否定したパワーって、案外大きいから、もしかしたらそれでもかなりの長い期間頑張れるかもしれない

 

でも、周りを否定しながら生きていくと、否定された周りの人達との感情が上手く噛み合わない

 

「あなたみたいになりたくは無い」と言われながニコニコと一緒にいる人は居ない

 

そんな風に直接言う人はなかなか居ないかもしれないけれど、そう相手が思っているかもしれないと思えば、周りは近づかなくなるだろう

 

同じ状況で、同じ事をしても「あなたのやり方も素敵だけど、私はこういう風に考えるから別のやり方で進んでみたいんです」と言われたら、別のやり方で進む人と隣にいながら生きていく事は出来るのではないかなと思う

 

そう考えると、周りを否定しながら生きていくのは風当たりも相当強くなるだろう事は想像ができる

 

同じ事をするなら、目の前にいる人や周りの人達を一人の人として肯定しながら動ければ、周りとは違う事も応援したりされたりしながら進めるのかななんて思う

 

自己愛性人格障害者は周りの人を全て否定して生きている

 

偉い人を賞賛していても「賞賛していれば楽チンに使えるチョロい奴、バカね」と思っている

 

もちろん、自分より下だと思った人達は「虫ケラだし、人間としての価値が無い」と、そもそも人間として否定している

 

誰もが近づけばいい思いはしないのはそのためだ

 

だから、結局心から応援されることはなくなってしまうのだ

 

自己愛性人格障害者のように自分以外を否定しないと自分の存在さえ認められないなんて極端ではなくても、周りを全て肯定出来る人なんてなかなか居ないかもしれない

 

けれど、出来る事ならなるべく周りを素敵だと思っていきていけたらいいなと思う

 

どんな人でも、良いところはあると思う

 

きっと自己愛性人格障害者にもその役割はある

 

なんて、世の中が喜びに沸くロイヤルファミリーの赤ちゃん誕生を見ながらちょっぴり考えてみた

 

周りが素直に祝福するために、一言「あの人も素敵よね」って言葉がほしいかな~

 

それがあれば、誰もが手放しで喜べるし、色々なところのかけはしになれるだろうななんて余計なお世話だけど…

体力に任せた練習をやめませんか?

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何かを出来るようになるために、ひたすら努力をする

とにかく、練習時間を増やす

 

これはこれで凄い能力

 

でも、出来ることなら小学校高学年辺りでこの方法から卒業してほしいと私は思っている

 

大人になっても闇雲に頑張る人は時間を大切にしない人だと感じる

 

ひたすら練習する事を高学年以上の子供達に強いる大人が私は苦手だ

 

先生のお仕事は、基本子供を上手くする事にある

 

そりゃ「マニュアル化した練習をこなせば、大抵の子は上手くなる」なんて教室はその先生のマニュアルの作り方が素晴らしいし、流行ると思う

 

「先生の言うことさえ聞いていれば、必ず出来るようになる」なんて、親にとっても楽チン過ぎて魅力的だ

 

先生のお仕事は、上手くする事が基本なのだから、それはそれでいいかもしれない

 

でも、私はそんな先生もあまり好きではない

 

何かが出来ないのは、出来ない理由がある

 

出来ない事を出来るようになるためにも、必ず順序がある

 

その順序を理論的に考えることを教えてくれる先生が居たら、そんな先生に自分も我が子も託したい

 

考える事が出来れば、何かを上手くなるスピードは練習時間を減らしても加速する

 

考える事が出来る年齢の初めの頃にそんな経験をさせてあげられる事が出来て、かつ、自分の物に出来れば、かなり要領良く社会を闊歩できるはず

 

ライフワークバランスのいい、休みの日はとことん遊ぶ人達の中に物凄い仕事が出来る人がいる

 

そんな人達の頭の中は、何でも挑戦するパワーと、何でも楽しんで集中出来る発想力と、順序立てて考える理論的思考に満ち溢れているのかもしれない

 

そろそろ、体力に任せた練習を減らしませんか?なんて、大人には特に思います

自由でいい!なんて最高の誉め言葉

我が子が最近始めた習い事

タップ

本人が、どうしてもやりたくて「靴を買ってくれ」と懇願した

6才にそんな意思があるのか?と思いながら、見学に行き本人はすっかりハマっているみたいなんだけど…

練習も勝手に…レッスン中も勝手に…

前回は、到着直前にお昼寝に突入

抱っこしながら見学してても起きず…帰ろうとして車に乗せたら「帰りたくない、眠いけどやりたい」と…

結局、3分の1程終わったところから参加

レッスン中は見ていなかったけど、先生の指導に関わらず自由に音楽に合わせて音を楽しんで遊んでいたんだろうな

終わった後、同じ空間にいる人達が口々に言う

「自由な感じがいい」「リズムに合っていていい」

最高の誉め言葉だとは思っているが…

結局はそこなんだろうけど…

楽しんでいるって素敵だけど…

レッスンはきっとキチンと出来ていないよね(苦笑)

きっとめちゃくちゃなんだよね(苦笑)

そんな環境に我が子を受け入れて貰っている事が感謝だし、我が子の音楽とか音の感覚が好きだからあの中で育ってくれたら最高だと思っているけれど、もしかしたらキチンとやりたい人は邪魔かもしれない

先生は個性的だし、我が子がいることであの教室には自己愛性人格障害者のような人は居づらい

入ってきてもきっとそのうち消えて居なくなる

見えない物がが評価されるところには、自己愛性人格障害者は居づらい

自由が評価されるところにいるのは、自己愛性人格障害者には苦痛だ

そんなところを、我が子とあの先生から学んでいる

それにしても、自由に音を楽しめるなんて羨ましい

パワーと思いが恥ずかしさに負けてしまう前に、さっさと上手くなるのかと思うと、子供はやっぱり物凄い未知の力を持つ生物なのだと感じる

音を感じられるなんて幸せだね